月イチガク⑨「縄文の宝島『隠岐』 ~大地と人の2万年~」
黒くきらめく宝の石
今から2万年前、その石を手にした狩人は驚きの声をあげました。
石の鋭い割れ口を毛皮に当てると、すうっと深く刺さり皮を切り裂いたのです。
宝の石だ。宝を見つけた。
狩人は興奮して石を拾い集めました。
隠岐島後で産する黒くきらめく黒曜石は、およそ2万年前から石器の材料として使われてきました。黒曜石とはケイ酸分(SiO2)に富んだマグマが急冷してできる天然ガラスです。特殊な条件が揃わなければできない石のため産地は少なく、西日本では隠岐のほかは
九州に数カ所あるだけです。
割れ口の鋭さでは黒曜石の右に出る石はなく、切れ味を必要とする石器の材料としては“極上品”です。そのため、限られた産地から広い範囲に流通した、石器時代の重要資源でした。
その切れ味を生み出すのはガラス特有の割れ方です。では、そもそもガラスとは何でしょうか。
岩石を融かして急に冷ますと分子が不規則に散らばった液体の状態でそのまま固化します。これがガラスです。コップなどに使うガラスは石英砂などを融かして急冷したものですから、成分的に黒曜石とほぼ同じです。
分子が並んでいないためにガラスの割れ方には方向性がなく、鉱物の結晶粒がないために割れ口は極めてなめらかです。この特徴が鋭い切れ味を生みます。ガラスコップの破片をうかつに触ると手を切ることがあることと、黒曜石の鋭さはいずれも薄く鋭く割れるガラスの特徴です。
黒曜石の成因はよくわかっていない部分もありますが、地下から上昇したマグマが地表に達するまでの間に速やかにガスが抜けることが必須の条件です。マグマの中には水や二酸化炭素などのガス成分が大量に含まれており、急速に地表に近づいて圧力が下がると泡立ちが始まって穴だらけの岩石になります。ゆっくりと圧力が下がれば泡立ちを免れますが、その場合は温度低下も遅くなるため結晶化が始まってしまい、ガラスにはなりません。つまり、黒曜石は矛盾した条件のもとで生まれたことになり、どのような時にゆっくりとガスが抜けつつ急速に冷えて固まるかということがはっきりしないのです。
およそ600万年前に隠岐島後で生じた火山活動では奇跡の条件が揃って黒曜石が生成されました。その産出状況を見ると、火砕流の堆積物中に礫として含まれており、黒曜石ができた後に爆発的な噴火でバラバラに破壊されて堆積されたことがわかります。このようにして生まれた石が、後期旧石器時代から縄文時代の終わりまで2万年近くの間、人々を魅了し求められ続けてきたのです。
隠岐の黒曜石を手に入れた方法
本土の旧石器遺跡から隠岐産の黒曜石を使った石器が見つかっており、旧石器人が隠岐から本土へ運んだことは確実です。彼らはどのようにして隠岐へ渡り、黒曜石を手に入れたのでしょうか。
その答えは「歩いて行った」です。約2万年前の隠岐は陸続きだったのです。
隠岐が陸続きだった理由は、気候変化による海面高度の低下によるものでした。約2万年前は地球全体の気温が低下する氷期でした。地球は数百万年前から現在に至るまで、10数万年の周期で寒い氷期と温暖な間氷期をくり返しています。最後の氷期は約10万年前に始まり、2万年前頃に最も寒い時期を迎えていました。その時、平均気温は5℃以上低下していたと考えられており、高緯度地方に氷床が厚く発達することで海水量が減少するとともに水温低下で水が収縮して、海面高度が大きく低下しました。約2万年前の海面は現在より約100mも低い高さにあったのです。
隠岐と本土の間は最も深い部分で水深約80mです。海面が100mも低下するとここは陸地に変わり、歩いて行き来できたのです。隠岐での黒曜石採取が2万年前頃までさかのぼることができるのも、この時期に陸続きで行きやすい場所だったことと一致します。
その後、縄文時代が始まる1万6千年前頃を境に気候は温暖化に向かい、やがて隠岐は島になり、次第にその距離が遠くなりました。しかし、縄文人は舟で隠岐を目指し、黒曜石を運び続けたのでした。
隠岐は陸続きの時代と離島の時代があることは、生物種にも影響しています。陸続きの時代には生物が行き来したため、本土と共通する生物種が多いことと同時に、固有の進化を遂げた種もみられます。
天皇配流
弥生時代に鉄器が使われるようになると黒曜石は石器資源としての役割を終え、本土に住む人にとって隠岐は宝の島から遠い島に変わります。遠い島の隠岐が次に歴史的に注目されるのは「遠流」の地としてのことです。
奈良時代、朝廷は罪人を大和から遠い地に送る遠流の制度を定めました。平安時代の初めに編纂された「続日本記」には、伊豆、安房、常陸、佐渡、土佐、そして隠岐が遠流の地として記されています。この中で唯一、隠岐は2人の天皇(上皇)が配流されました。
1221年に「承久の乱」を起こして鎌倉幕府から政権奪回を試みた後鳥羽上皇は、この戦に敗れて中ノ島(海士町)に配流されました。上皇はこの地で生涯を終え、同町の隠岐神社にまつられています。
1332年には後醍醐天皇が島後に配流されました。後醍醐天皇は翌年に隠岐を脱出し、鎌倉幕府を倒しています。
このような遠流は盗みや傷害などのような犯罪を行ったものばかりではなく、政治的に対立関係にある人物なども送られました。ある程度身分が高い人物はその地で暮らすことができるよう配慮されることもあったらしく、遠流の地には都からほどほど遠く、監視の目が届く程度には近い場所という条件も重要でした。遠流で送られた都の高官や名士が伝えた文化や風俗が島の人々に影響を及ぼし部分もあったと言われています。
後鳥羽上皇は中ノ島の人々にとって敬うべき対象で、今も伝わる隠岐の牛突き行事は上皇を慰めるために始まったといわれています。隠岐の人々が天皇配流の歴史を大切にしてきたことは、幕末の「隠岐騒動」にも影響したとされます。
江戸時代の隠岐は幕府領で松江藩が預かりの形で治めていました。幕末、外国船の来航に脅威を感じた幕府は松江藩を通じて隠岐の守衛強化を図ろうとします。ところが、島民は隠岐が天皇の地であるとして幕府と松江藩に反発し、自治政府を樹立して独立運動を起こしました。これが隠岐騒動です。自治は80日間に及びましたが、この間に樹立された明治新政府は自治を認めず、騒動は幕を閉じました。
現代でも隠岐では天皇配流の歴史と、都の高官らが伝えた文化が大切にされています。
日本海の拠点港へ
江戸時代には各地の港を巡って物品の取引を行う廻船が盛んになりました。北前船とも呼ばれ、「海上の商社」と表現されることもあります。
初期の段階では廻船は岸沿いに船を進める航路をとりますが、航海技術が発達すると北陸と下関を最短距離でつなぐ沖乗り航路が開拓されます。沖乗り航路の中間点にある隠岐は中継地として重要な存在になり、水などの補給や嵐の時の風待ちに使われるようになりました。鉄をはじめとする出雲の物資を隠岐に運んで廻船に積み替えることも行われるようになり、産鉄地の安来と隠岐の西郷をつなぐ航路は現在の隠岐汽船のルーツとされています。このようにして多くの船が隠岐に出入りするようになり、最盛期には年間4500艘にも達したと伝わります。
港を作ることすら難しい離島もありますが、隠岐は荒れやすい日本海にありながら島前、島後とも良港に恵まれています。その理由を探ると、日本海の成立にまでさかのぼる地殻変動と、火山活動の歴史が見えてきます。
島後の西郷港は南に向いて開いた湾にあります。この西郷湾は日本海に大時化をもたらす北西風に対して風裏になることに加えて、湾の入り口が狭まっているために湾内は穏やかで、港として絶好の条件です。
湾と周辺の地形を見ると、東北東–西南西の方向性があり、これは日本海の海底に続く地形の主要な方向性と一致します。およそ2000万年前から1500万年前に日本海が拡大した時の地殻変動の動きを物語る方向性で、その一端が西郷湾という良港に適した地形を生み出したのです。
また、西郷湾の入り口部分にあたる岬半島では約50万年前に生じた火山活動で流出した溶岩が平坦な溶岩台地を作っています。この台地は隠岐空港に利用され、短時間で隠岐と本土をつなぐ役割を果たすとともに、空港と港が隣接する好立地を生み出しています。
島後も良港に恵まれています。島後は複数の島からなり、島に囲まれた内海に浦郷、別府、菱浦などの港があります。中ノ島(海士町)、西ノ島(西ノ島町)、知夫里島(知夫村)の3島は大きな円を描くように並び、その内側に広い内海を形成しています。その広さに対して島々の間は狭まっており、外海の波の影響を受けない内海は穏やかです。
島前の内海部分は約500年前の火山活動が形成したカルデラと考えられています。それぞれの島がカルデラの外輪にあたり、西ノ島の焼火山が中央火口丘です。島後に良港をもたらしたのは火山活動だったのです。
こうして、島前、島後とも大地が生み出した良港に恵まれ、多くの船が隠岐の港に立ち寄る「近い関係」が生まれたのでした。
豊かな恵みの海
隠岐周辺海域は日本海随一と言える好漁場で、全国でも屈指の漁獲高を誇る水域です。その豊かさは隠岐近海の海底地形と日本海ならではの海水の構造がもたらしています。
日本海は世界的に見ると狭い海です。それでいて、最大水深が3650mと大洋並みの深さを持ち、平均水深も1000mを超える深い海です。その深さゆえに深海には寒流からもたらされた冷水が滞り、日本固有水と呼ばれる0~1℃程度の水塊を構成しています。この水は酸素と栄養塩に富んでおり、生物を育む水です。この水塊の上を黒潮から分流した暖流の対馬海流が流れて、水深300m付近に冷温の境があります。栄養塩に富んだ冷たい水と暖かい水が接する関係によって、南方系、北方系の魚介が多く生息する環境を生みます。
隠岐近海には、隠岐海脚という地形の高まりがあり、冷温の海水の境界部分に向けてせり出す形になっています。生物を育む水塊と海底が接する関係が好漁場をもたらしているのです。地殻変動の結果として形成された地形が隠岐周辺を豊かな恵みの海をもたらしたのです。
この恵みの海を目指して、山陰両県だけでなく北陸から九州まで各地の漁船が訪れて漁を行っています。日本海の漁業にとって隠岐は宝の島であり、私たちは知らずしてその恩恵を受けているのです。
陸続きだった旧石器時代から、離島になった縄文時代を経て、現代まで隠岐は「宝の島」として人々が目指し続けています。
そして今、違う形でも注目されています。
隠岐島前高校には全国からこの学校を目指す生徒が集まり、海士町が進めるまちづくりの取り組みに共感した人々が移住して定住しています。地方の衰退が進む時代にあって、遠い離島に活力が生まれています。地方の在り方にとってひとつの夢をもたらしている隠岐は、未来に向けた宝島でもあると言えるのではないでしょうか。
カテゴリー | 教室 |
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日時 | – |
会場 | さんべ縄文の森ミュージアム |