さんべ縄文の森ミュージアム(三瓶小豆原埋没林公園)

島根県大田市にある三瓶小豆原埋没林公園

埋没林発見の記録

1983年(昭和58年)

1983年(昭和58年)

地底に眠る巨木が初めて姿を現したのは、1983年でした。
水田の区画を整備する「圃場整備」の工事中に地中に立った状態の木が出現したのです。
この木は、工事の障害になることからある程度の深さまで掘り下げて切断されました。 それ以前にも、三瓶山麓の土中や三瓶川の河床から巨大なスギの倒木が出現したことが幾度もあったことから、この木も特に話題になることはありませんでした。

事態が動き始めたのは、巨木が出現してから何年も経った後のことでした。
高校の教員で三瓶火山の研究者でもある松井整司氏が付近に調査に訪れた際、小豆原地区の方が上の写真を見せたのです。
写真を目にした松井氏は驚き、その貴重性を直感しました。そして、定年退職後に独自で調査を開始しました。

1998年(平成10年)

1998年(平成10年)

松井氏は埋没樹が出現した水田でボーリング調査を行い、10m以上も堆積した火山灰層の下に、かつての谷底の土壌が存在することを突き止めました。
また、周辺の地質調査などから、小豆原の谷には三瓶火山の活動に伴って「土砂ダム」が形成され、そこに堆積した土砂が森林を埋めた可能性が高いことが明らかになりました。
松井氏の調査を受けて、島根県が「三瓶自然館拡充事業」の一環として調査に着手しました。
当初、地中レーダーなどを用いた探査で埋没樹を探しましたが確認できませんでした。そこで、掘削したところ立木の頂部が次々に発見され、地下に森が埋もれていることが確認されました。

1998年(平成10年)

地中に立つ巨木群は、いつ埋もれたものか。それを確認するために、島根大学で放射性炭素を用いた年代測定が行われました。
分析開始から1週間ほどで得られた年代値は「3500年前」。縄文時代後期に相当する値が得られたことで、島根県が「三瓶小豆原埋没林」と命名し発見を発表しました。

埋没の年代については、その後も複数の資料で測定が行われ、3700年前前後の値に集中することが判明しました。この値は、三瓶火山の最後の活動と一致し、その活動で形成されたことが明らかになったのです。
なお、放射性炭素の測定値は実際の年代(暦年代)とずれがあることが知られています。暦年代に補正すると、三瓶小豆原埋没林の形成年代は約4000年前になります。

1999年(平成11年)

1999年(平成11年)

試掘的な発掘調査で、約30本の立木が確認され、そのうち2本を掘り出して三瓶自然館に展示する計画が具体化しました。
1999年から地質調査を兼ねた発掘作業が始まり、この年は尾根に近い場所にあった根株状のスギの掘り出しが行われました。

1999年(平成11年)

根株の掘り出しを進めると、すぐ側から細めのスギが現れました。このスギは根本が斜面に沿うように曲がり、細い枝も残っていました。
埋没林に細い枝が残っていることは珍しいことから、このスギもあわせて展示することになりました。

1999年(平成11年)

樹木を埋めている地層は、森が埋もれた過程を示す貴重な情報を含んでいます。根元には古土壌が残り、そこには種子や昆虫遺体など森の生態系を示す情報が含まれています。
これらの調査を行いながら発掘作業を進め、調査終了後に標本として取り上げました。
取り上げた埋没樹は、現場に仮設したプールで「ポリエチレングリコール」の水溶液に漬け、保存のための処理を行いました。

2000年(平成12年)

2000年(平成12年)

2000年には、10m以上の幹を持つスギの発掘作業が行われました。
この発掘作業は大変大がかりなものでした。
まず、幹の周囲に直径80cm、長さ25mの鋼管を多数打ち込み、「連続地中壁」と呼ばれる直径8mの円筒形の地下構造物を設置しました。
そして、連続地中壁の内部を掘り下げると同時に鋼材で補強しつつ、根元までの発掘を進めました。

発掘はまず穴の半分を掘り、残した部分の壁面を観察しながら段階的に掘り下げました。
幹の上部は、水の流れで「土砂ダム」に堆積した火山灰で埋もれており、当初はその地層が根元まで続いていると予想されていました。
土砂ダムの中で静かに埋もれたので、幹が倒れなかったという予想です。
ところが、掘り下げると火砕流の地層が現れました。さらにその下からは土石流の地層が現れたのです。火砕流や土石流の直撃を受けなかったから倒れなかったという予想は外れ、小豆原の木々は直撃を受けながら耐えたことが判明しました。

2000年(平成12年)

根元までの発掘調査が完了した後、幹の切り出し作業が行われました。
この幹は根元が二又に分かれていたことから、その上を切断し、取り出すこととしました。
取り出しの作業も大がかりなものです。幹にはあらかじめ2カ所に穴をあけ、そこに鋼管を差し込んでおきました。その鋼管にワイヤを付け、2台の大型クレーンで幹を支えてから切断作業を行いました。
切断部の直径が2m近くに達する幹は、切断も容易ではありませんでした。熟練の職人が1mのチェーンソーを使って切断します。
チェーンソーが幹に触れた瞬間、鮮やかな木の香りが発掘坑内に充満し、時を超えて太古の森で木を切っているかと錯覚するほどでした。

2000年(平成12年)

切断を終えた巨大な幹は、クレーンで吊られ、地下から取り出されました。
4000年ぶりに樹木が地上に現れた瞬間です。
明るい日差しの下では、火砕流を受けた部分が周囲より黒く炭化していることを見て取ることができました。

2000年(平成12年)

輪切りで展示する標本を確保するため、幹で標本とは別に、1983年に切断された埋没樹の切り残しを使うことになりました。
切り残しを探し当て、発掘したところ、その周囲には多数の巨木が折り重なって倒れていました。
土石流が流れる過程で木々をなぎ倒し、ここまで運び込んできたものです。倒木は立木の下流側にからみつく形で埋もれており、土石流が下流から逆流してこの地点まで達したことが明らかになりました。