さんべ縄文の森ミュージアム(三瓶小豆原埋没林公園)

島根県大田市にある三瓶小豆原埋没林公園

お知らせ

月イチガク「良港ゆのつは火山の贈り物!?」3月9日開催

2024.02.24

石見銀山の港として、北前船の寄港地として栄えた温泉津湊。

奥行きがあり波静かな良港の成立に火山が関わっていたとは一体どういうことでしょうか。

続きは3月9日に。

月イチガク「くにびきの山がつなぐ海の道」2月10日開催しました

2024.01.28

くにびきの山がつなぐ海の道

 2月10日の月イチガクは、出雲国ジオガイドの会の松原慶子さんにお越しいただき、風土記の時代から関わりがあった出雲と越(北陸)の話題を中心にお話いただきました。

 出雲国風土記では、冒頭の意宇郡の条にある「国引き神話」が古事記、日本書紀にはない独特の神話として知られています。この神話では、海の彼方の志羅紀(新羅)、佐伎の国と良波の国(隠岐か?)、そして高志の津津の三埼から国の余りを引き寄せたとします。高志は越と考えられ、神話に登場する地名は出雲が交流していた地域という説が有力です。

 越に関係する記述は国引き神話以外に何カ所もあり、関わりが深かったことが推定されます。意宇郡の拝志郷と母里郷に「越の八口」の地名があり、それが越のどこかはわかっていないのですが、北陸に残る出雲関連地名などを調べて「出雲を原郷とする人たち」などの著書がある岡本雅享さん(福岡県立大学教授)は能登半島の邑智潟平野(邑智低地帯)がその場所ではないかと指摘されています。羽咋市から七尾市に半島の基部近くを斜めに横切る低地で、西から船で近づいた時、低地と両側の山が「八」の字に見えてその奥に船が入る潟がある「口」という解釈です。出雲と越をつなぐのは海の道であり、港が拠点だったことを考えると、岡本さんの指摘はとても興味深いものです。

 また、出雲市古志町は、古志(越)の人が日淵川(今の保知石川)をせき止める堤を作り、その後住み着いた地とされ、北陸から土木技術が導入されたこともうかがわれる内容です。

 出雲と越の関係性を物語るものに「御穂須須美命(みほすすみのみこと)」という女神の存在があるそうです。この女神は「所造天下大神(天の下造らしし大神)」と越の「神奴奈宜波比賣(ぬなかわひめ)」の間に生まれた子とされ、美保神社(松江市)の境内社と能登の須須神社(珠洲市)などに祭られています。「所造天下大神」は出雲の「大国主命」と解釈され、御穂須須美命は両地域の関係の深さを示す存在と言えます。なお、御穂須須美命の縁で旧美保関町と珠洲市は姉妹都市縁組みを行い、松江市がそれを受け継いでいます。1月の能登半島地震では松江市はいち早く珠洲市への支援を行ったことが報道されました。

 ところで、陸路では遠い出雲と越ですが、海路ではどうだったのでしょうか。美保関から能登半島まで直線距離で約350km、若狭湾以外は沿岸を航海すると約400kmの距離です。直近とは言えない距離ですが、日本海を北上する対馬海流に乗ると出雲から越への航海は比較的容易だったと考えられています。逆に越から出雲へ渡る時は、春から夏にかけて北陸から山陰に向けて吹く北東風「あいの風」を使うと航海が楽になったと考えられます。あいの風は、北陸では幸せを運ぶ風といわれ、富山県では北陸本線を引き継いだ鉄道会社の名前に付けられています。江戸時代後半から明治時代の日本海航路(北前船)でもこの風を利用したといい、古代以来、日本海の海の道は対馬海流とあいの風に支えられてきたと言えるでしょう。

 対馬海流と出雲の関わりでは、神在月の神迎え祭にも関係する「龍蛇」があります。温暖な海域に生息するセグロウミヘビが対馬海流に乗って日本海を北上し、水温が低下する11月頃に力尽きて大社の稲佐の浜などに打ち上げられます。龍蛇が訪れると神々が出雲にやってくるとされ、打ち上げられた龍蛇は神社に大切に奉納されるそうです。

 月イチガクの後半では、思いがけないものが登場しました。

 日本海航路の話題から、福光石をはじめとする温泉津の石材が日本海航路で北陸まで運ばれ、北陸から運ばれる石もあったことを紹介し、その例として福井県の「笏谷石」の名前を紹介したところ、松原さんが荷物の中から笏谷石を取り出したのです。美保関の青石畳通りの一部にこの石が使われていることから持っていたということですが、偶然その名前が出たことに驚いた様子でした。

 縄文の森ミュージアムでは福光石を使った場所があり、講座後に参加者とともに笏谷石と比較して、見分けがつかないことを確かめました。見た目だけでなく質的にも大変よく似ており、そんな石がはるばる運ばれた理由は船の安定を確保するバラストを兼ねて石が荷積みされたことによると確認して、今回の月イチガクは終了しました。

埋没林の保存作業のお知らせ

2024.01.17

下記期間、大展示棟の埋没木の保存処理作業を行っております。

 

令和6年1月17日 ~ 令和6年2月28日

展示の一部が見えにくくなっておりますが、ご了承くださいますようお願い申し上げます。

ご来館にあたって

2023.05.07

コロナ感染症に関連する制限は行っていませんが、皆さまのご判断で感染拡大防止にご協力いただけると幸いです。

 

①発熱、風邪症状等の有無をあらかじめご確認ください。

②受付付近に手指用の消毒液を設置していますので、ご活用ください。

 

 

●休館日

火曜定休      火曜が祝日の場合は翌平日が休館になります

メンテナンス休館  12月と3月の第1月曜日から金曜日までの5日間

年末年始休館    令和5年12月25日~令和6年1月1日

 

縄文の森有料案内ガイド

2023.04.27

縄文時代の木々が立つ展示室でスタッフが案内ガイドを行う、予約制のガイドイベントです。入館料とは別途案内ガイド料が必要になります。

 

 

 【料  金】10名以下は1団体(個人でも)1000円、11名からは1名ごとに100円増

 ※入館されるグループ全員を参加者とします。

 ※学校や社会教育施設等による教育事業は無料です。

  高校生以下の、児童生徒が対象の教育事業はこちらをご覧下さい→予約・展示解説

 

 【所用時間】20~30分

 ※時間は目安です。

 ※参加者のご都合で時間を短縮する場合の減額はありません。

 

 

 【定  員】40名まで

 ※40名を超える場合は1ヶ月前までご相談ください。

  (先約その他の事情によって実施できない場合もありますのでご了承ください)

 

 【予  約】1週間前までに、電話(0854-86-9500)またはメールで受付

 ※都合により実施できない場合がありますのでご了承ください。

 

キーホルダー等の販売の制限について

2023.03.23

発掘時に出土木(立木と同じ約4000年前の木)を用いたキーホルダー等の商品は、材料の残りが限られるため数量限定で販売しています。

○お一人様5個まで
 キーホルダー、ストラップ等、出土木を用いた商品の合計を、お一人様5個までとします。

○ご来館者限定
 振り込み、商品発送による販売は中止させていただきます。なお、解説書「森のことづて」は従来どおり振り込みでの発送を承ります。

月イチガク「銀(しろがね)の山を掘る」1月27日開催しました

2024.01.28

127日(土)の月イチガクは、石見銀山遺跡を世界遺産へ導いた発掘調査の成果を中田健一さん(大田市石見銀山課)にお話していただきました。

 中田さんは遺跡の意義と価値を明らかにする目的ではじまった調査を担当され、2007年の世界遺産登録を実現した立役者のひとりです。TBS「世界遺産」、NHK「ブラタモリ」などメディアへの出演機会も多く、調査だけでなく石見銀山の価値を広く伝えることにも取り組んでいらっしゃいます。

 

 石見銀山遺跡で最初に発掘調査が行われたのは1983年でした。この年に「石見銀山総合整備計画」が策定され、その後の歩みの起点となる年です。石見銀山遺跡は1969年に国の史跡に指定されていましたが、それまでは地上に残る建物や坑口(坑道の入り口)などの遺構群が知られているだけで、埋蔵文化財として地下に残る遺構などの存在はほとんど分かっていなかったようです。この時の調査で炉跡などの遺構が確認されています。(この年は縄文の森の発見につながる巨木が出現した年でもあります。)

 

 1992年には仙ノ山の山頂に近い石銀地区での調査が始まり、1997年までの調査によって石銀は採掘から精錬まで行う場であったことと、人々が暮らす都市的な町が存在していたことが明らかになりました。銀の精錬技術である「灰吹法」を裏付ける鉄鍋や地面に掘られた炉跡の発見は石見銀山遺跡の歴史的な価値を証明するものでした。また、山の上に町があったことも鉱山遺跡としての性格を現しています。

 

 その後、大森町地内の各所で発掘調査が行われ、製錬と生活に関する遺構と遺物が各所で確認されることで、少しずつ遺跡の状況が見え始めました。1995年には当時の澄田知事が石見銀山遺跡の世界遺産登録を目指すことに初めて言及し、翌年に建造物や文献などを含めた「石見銀山総合調査計画」が策定されて、埋蔵文化財以外の調査も始まりました。その頃、発掘調査の指導に訪れた専門家から「30年間調査を続けたらこの遺跡の様子が見えてくる」という言葉があったそうで、遺跡としての規模と複雑さ、奥の深さを物語る一言です。

 

 鉱山では生産品である金属そのものが現地に残ることがほとんどありません。発掘調査で製錬の中間製品の「貴鉛」と最終の精錬段階の「灰吹鉛」が発見されたことは、「銀」を直接示す資料であり、製錬工程を示す資料として極めて重要でした。その発見が世界遺産申請への準備段階であったことは幸運でもありました。中田さんは石見銀山を「運が良い遺跡」と表現しており、遺跡として残ったことやその後の経緯などさまざまな場面での偶然が「幸運」につながっています。20227月のNHK「ブラタモリ」では、梅雨の雨が続いて収録日の天候が心配された中で当日は晴天に恵まれ、その時も中田さんは「石見銀山は運が良い遺跡だから。」と口にされていました。

 

 大森の町並み一帯での発掘調査では、遺構や遺物の出土と同時に過去の水害による土砂堆積も確認されました。大森の町は幾度もの水害に見舞われており、堆積した土砂の上に幾度も町が再建されていました。町並みの下手にある城上神社付近の調査では、現在の道路面から3m下まで幾層もの遺構面と土砂堆積が確認されています。熊谷家住宅付近では1800年の大火を示す焦土などが確認され、現在の町並みは大火以降の町割りを留めるものと判明しています。

 

 大森地区の発掘調査に遅れて、温泉津町温泉津でも道路部分の発掘調査が行われ、陶器類は大森町を上回る密度で発見されています。温泉津では輸入陶磁器も多く、海外との交易を証明することにつながっています。

 

 発掘調査によってさまざまな事実が明らかになってきていますが、未調査の範囲も多く残されており、石見銀山遺跡の全体像を明らかにするためには今後も調査を継続する必要があると中田さんはおっしゃいます。同時に、発掘調査などで得られた情報を遺跡の面白さとして伝えることで、観光の魅力や地域の学びにつながることの大切さを指摘されて、月イチガクの参加者全員が大きく頷く様子が印象的でした。

月イチガク「水をまつる~三瓶のわき水と信仰~」12月2日開催しました

2023.12.03

いにしえから現在まで、三瓶山とそこから流れ出る静間川を人々はどのように見てきたのでしょう。

水にかかわるまつりと信仰について、参院民俗学会の多田房明さんにお話していただきました。

 

静間川の河口に近い大田市鳥井町に三瓶山の古名を名乗る「佐比賣山神社」があります。

山が見えない場所に山をまつる神社があることが不自然だと多田さんは指摘します。

 

この神社には様々な神がまつられていて、いくつもの神社を合祀したり、他の信仰を取り入れてきたことがわかります。佐比賣山神社が立地する場所の字は「八幡」で、この場所には八幡宮があり、よそにあった佐比賣山神社を合祀したときに社名もこれにあわせたそうです。鳥井の人が佐比賣山神社を大切にしていたことの現れといえます。

 

合祀前の佐比賣山神社は鳥井南丘陵の山裾にあり、丘陵の上からは南に三瓶山を望むことができます。その場所には鳥井南遺跡があり、ここでは三瓶山をまつったと考えられる祭祀遺構が発見されています。巨木の下で長期間にわたって祭祀が行われていたことがわかっており、この祭祀が佐比賣山神社のルーツと考えると、鳥井町にこの神社があることの意味が浮かびあがります。

 

山そのものへの信仰とは別に、鳥井海岸では物部神社の藻刈り神事が行われます。和布を刈る重要な神事で、もともと鳥井海岸付近に静間川の河口があったことに由来すると考えられます。

物部神社では藻刈り神事の翌日に御田植祭が行われます。

一年の豊作を祈念する祭りで、三瓶山から田の神「サンベイ」を招き、三瓶山の田植え囃子が奉納されます。農耕を支える水源である三瓶山への信仰です。

御田植祭と実りを祈る9月の田面祭(たのもさい)で重要な社は、側社の「一瓶社」です。この社は大瓶をまつっていて、12月の造酒神事ではこの瓶を使って酒を仕込みます。三瓶山をまつる社としての「一瓶社」が重要な神事の主役であることは、物部神社のルーツが三瓶山と静間川の水への祈りであることを物語っています。

 

三瓶山を望み、そこから流れ出る静間川が大きな支流のひとつ忍原川と合わさる地に物部神社がまつられ、静間川が海に注いでいた鳥井で藻刈神事が行われるという関係で、鳥井は海からやってくる神を迎える場所でもあるそうです。物部神社の一の鳥居があったことが「鳥井」の地名の由来とも言われます。

 

静間川の源流に注目すると、そこには浮布の池があります。

この池には邇弊姫神社がまつられていて、正面が池を向いていることが特徴で水への祈りであることを表しています。7月の例大祭では、池の北端から船で参り、池ノ原の田植囃子を奉納して豊作を祈ります。

 

水源の山である三瓶山は「水瓶」の山であり、山と水へのいのりが物部神社と邇弊姫神社の祭りとして受け継がれているというお話でした。

今回は静間川が中心でしたが、三瓶川沿いにも水へのまつりに関わる神社があり、縄文の森に近い中津森にある佐比賣山神社もそのひとつということです。

月イチガク「縄文の森に狩人登場」!?」11月25日に開催しました

2023.12.02

 宮城県仙台市の富沢遺跡では、約2万年前の森林と人々の生活跡が発見され、地底の森ミュージアム(仙台市富沢遺跡保存館)として現地での保存と展示公開が行われています。今回の月イチガクでは、同館の平塚幸人さんに富沢遺跡についてお話をうかがいました。

 

 「狩人登場」のタイトルは、昨年10月に富山県魚津市で開催された「埋もれ木サミット」の際に平塚さんが紹介されたミュージアム・シアターの話題が印象的だったことからつけたものです。

 富沢遺跡は仙台市の市街地にある広大な遺跡で、19871988年に行われた発掘調査によって約2万年前の森林と人々の暮らしが詳細に解明されています。その成果を紹介する地底の森ミュージアムの常設展示内容を実感しやすくするための取り組みとして、劇団員が旧石器人に扮して当時の暮らしのイメージを演じ、来場者と対話するという取り組みを行っています。これが「ミュージアム・シアター狩人登場!!」です。

 資料に基づいて演じていますが、服装などわからないことも多く、できるだけ史実に近付けるように相談することが研究へのフィードバックにもなっているということでした。

 

 それでは、2万年前の富沢の風景はどのようなものだったのでしょうか。

 この頃は最終氷期中で最も寒かった時期にあたります。富沢遺跡ではこれまでの発掘調査から次のことが明らかになっています。

 一帯は傾斜の緩い平坦な地形で、湿地が広がっていました。陸地部分には針葉樹が生え、樹種は、北海道北部から樺太あたりの現植生に近く、アカエゾマツに近縁のトミザワトウヒ(絶滅種)、カラマツの仲間であるグイマツ、その他にチョウセンゴヨウなどが生えていました。

 そのなかで人がたき火をした跡が見つかり、石器を作ったり動物を解体したりしていたことが推定されています。使われた石器の顕微鏡観察から、ウサギ程度の小型の動物を解体したと推定されているそうで、そこまで解析できることに驚きをおぼえます。

 動物の痕跡としてシカのフンが複数の地点で見つかっていることも特徴です。堆積物とケイ藻化石から想定される水陸の境とシカのフンの分布、水生昆虫と陸生昆虫の化石の分布がほぼ重なるということで、高精度で2万年前の風景、環境が解析されていることがわかります。

 このような古環境と古景観の解析に基づいて描かれた復元画の紹介もありました。発掘調査で新しい情報が蓄積されると新しいバージョンが同じ作者によって描かれ、これまで4バージョンあるそうです。いずれも東側から西側を見る方向で描かれて、樹種も調査結果に沿った精密なものです。

 

 2万年前の風景を詳細に復元できたことは、古環境を示す証拠が良好な状態で残っていたことが要因のひとつです。当時の地表にあったものが良好に残した作用がどのようなものだったかは注目したい部分です。

 三瓶の場合は火山噴火というイレギュラーな地質現象によって急速な埋没が生じましたが、富沢ではそれほど劇的な現象を示す堆積物はありません。旧地表を覆う堆積物は砂より細かいシルト、粘土で、付近にある金洗沢と二ツ沢が供給源と推定されています。ただし、埋没のメカニズムの解明はもう少し検討の余地があるということでした。

 証拠が残った理由として、寒冷なため有機物の分解が遅いことも関係あるのかも知れません。その可能性を支持するように、東北地方では最終氷期中の埋没林が多く発見されています。

 

 今回、富沢遺跡について詳しいお話をうかがい、古環境復元が持つ可能性をあらためて感じました。現在の環境を知り、未来を予測する上での情報源は、過去の事象です。埋没林は一般的には地味な存在ですが、大きな意味と可能性を秘めていることを、埋没林を展示する富沢、魚津、三瓶の3施設で発信することの大切さを感じた月イチガクでした。

小学校5年生三瓶研修

2023.03.16

大田市の小学校で実施される三瓶研修(5年生)のプログラムでさんべ縄文の森ミュージアムのご利用をお待ちしています。

解説では、縄文の森を通じて環境の移りかわりや三瓶山に関わることに加えて、学校ごとの地域学習につながる情報を紹介します。

研修の事前学習をオンラインや出前授業として行うこともできますので、お気軽にご相談ください。