さんべ縄文の森ミュージアム(三瓶小豆原埋没林公園)

島根県大田市にある三瓶小豆原埋没林公園

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埋没林について

埋没林について

「埋没林」の意味

 埋没林(まいぼつりん)という言葉を普段見聞きする機会は少ないと思われます。これは、過去の森林が根を張った状態で地層中に埋もれたもの、すなわち「森の化石」です。

化石は過去の生物の姿や、自然環境を物語る証拠になります。森の化石である埋没林は、過去にどのような森林が存在したかを示す証拠です。化石の多くは、水の流れによって運ばれて地層中に埋もれたもので、その生き物が生息していた場所に埋もれたものとは限りません。陸上にすむ生き物が海でできた地層から見つかることがあり得ます。

この点、埋没林は生えていた場所に根を張っていることから、「その場所にあった森林の姿」そのものです。樹木だけでなく、昆虫などの化石も一緒に見つかることが多く、生態系の一部を知ることが出来る可能性があります。

つまり、埋没林は過去の自然について知る手がかりとして、貴重な存在なのです。

全国の主な埋没林と埋もれ木。報告されているものだけで30箇所以上がある。

 埋没林を現地で展示公開している施設は、三瓶小豆原埋没林のほかに魚津埋没林博物館(富山県)、富沢遺跡保存館・地底の森ミュージアム(宮城県)があります。魚津埋没林は富山湾の海底に存在する埋没林で、特別天然記念物です。富沢遺跡の埋没林は約2万前のもので、埋没林と旧石器が同時に発見されています。

 以下で紹介する三瓶小豆原埋没林の詳細は、展示解説書「森のことづて ~縄文の巨木林・三瓶小豆原埋没林」で詳しく触れています。 さんべ縄文の森ミュージアム(三瓶小豆原埋没林公園)および三瓶自然館で発売しています。(価格1000円)

 郵送での取り扱いもいたします。購入方法等、詳しくは三瓶自然館ミュージアムショップへお問い合わせ下さい。(代表0854-86-0500)

 また、三瓶埋没林調査報告書(I)をPDFファイルで公開しています。→報告書のページを開く

三瓶小豆原埋没林の特徴

さんべ縄文の森ミュージアムの地下展示室に立ち並ぶ埋没林の巨木

 三瓶小豆原埋没林は縄文時代の森が地中に埋もれ、生きていた時のまま根を張り、さらに長い幹を残したまま直立しています。

複数の樹木が根を張った状態で地層に埋もれたものが「埋没林」または「化石林」と呼ばれ、全国で数十カ所が知られています。その大部分は根もと付近が残るのみで、長い幹を残すものは世界的にも珍しい存在です。

埋没林の形成

 三瓶小豆原埋没林は、三瓶火山の噴火によって埋もれました。地形的な偶然がいくつか重なったことで長い幹を残したまま残ったものです。

池の向こうにそびえる山が三瓶山。この山を形成した火山活動によって埋没林が地中に埋もれた。

<三瓶火山の活動>

 三瓶山(さんべさん)は、島根県の中ほどに位置する標高1126mの山です。幾度も火山活動を行った火山で、活火山に指定されています。約10万年前に最初の火山活動を行い、数千年から数万年の間隔で7回の活動を行ったことが明らかになっています。古い時期にはカルデラを形成する大規模な噴火を伴っており、現在の山体はカルデラ内で噴出した溶岩からなる複数の「溶岩円頂丘」で構成されています。

 埋没林の形成に関わったのは約4000年前の7回目の活動期の噴火です。この噴火は、ゆっくりと溶岩を噴出しながら火砕流を発生させる「雲仙岳平成噴火」と同じタイプのものでした。三瓶火山の溶岩は粘りけが強く、火口から出てくるとほとんど流れずにその場所で固まります。溶岩の塊が不安定になると崩れて流れ落ち、火砕流が発生します。火砕流として流れ下った土砂が水を含むと土石流が発生し、これを繰り返しながら山体が形成されました。

※火砕流:火山灰などの火砕物(土砂状の火山噴出物)が火山ガスと一体になって流れ下る現象。

<土石流による谷のせき止め>

 約4000年前に三瓶火山が活動している時、火山の北側斜面で大規模な斜面崩壊が発生しました。火砕流として流れ下った火山灰や火山岩(溶岩が固まった岩)の礫(砂よりも大きな岩石の粒)などが厚く堆積しており、それが崩れたのです。崩壊で発生した土砂は、土石流になって流れ下りました。

土石流は土砂と水が一体になって流れ下る現象で、大変大きなエネルギーを持っています。約4000年前に発生した大規模な土石流は小豆原の谷から尾根をひとつ隔てて南側を流れる伊佐利川(いさりがわ)の谷を埋め尽くしながら流れ下りました。伊佐利川の谷では、この時に堆積した土砂の厚さが40mにも達し、土石流の規模が大きかったことを物語ります。  伊佐利川と小豆原川は、埋没林の地点から約500m下流で合流しています。伊佐利川の谷が埋め尽くされたことで、小豆原川は合流部でせき止められた形になりました。「土砂ダム」と呼ばれる状態です。土砂ダムが形成された時、土砂の一部は谷を逆流して埋没林の地点まで達しました。

<逆流した土石流>

 大規模な土石流が伊佐利川の谷を埋め、小豆原川との合流点をせき止めた時、土砂の一部は逆流して埋没林の地点まで達しています。合流部と一部は尾根の低い部分を乗り越えて逆流した土石流は、勢いが衰え、埋没林の地点に生えていた木々は倒されずに埋もれました。立木の根元付近には土石流がなぎ倒した巨木がからみつく形で折り重なっており、この地点より下流側(土石流の流れとしては上流側)の木々の多くはなぎ倒されたと推定されます。埋没林の地点は、立木がぎりぎり持ちこたえることができる程度まで土石流の勢いが衰えた場所だったのです。

立木の1本を掘り出したところ、多数の流木が多数絡みついた状態で埋もれていた。

<火砕流の直撃>

 下流で谷がせき止められ、逆流した土石流が埋没林の地点まで達した後、火砕流が流れ込みました。火砕流は火山灰などが高温のガス(温度が低い場合もある)とともに流れ下る現象です。小豆原に流れ込んだ火砕流は、比較的細かい火山灰が中心で、温度は200度以上あったと推定されています。この火砕流は埋没林の表面をわずかに炭化させています。火砕流の地層は2m以上の厚さがあり、内部まで炭化させても不思議ではありません。表面しか炭化していない理由は、土砂ダムに水が溜まり始めており、その水によって火砕流で堆積した火山灰の温度を一気に下げたためと推定されます。

<埋まった土砂ダム>

 土石流と火砕流が流れ込んだ後、埋没林の木々はさらに深く埋もれました。それは谷が土砂ダムの状態になっていたためです。土砂ダムに水が溜まると同時に、その水が運んできた火山灰が厚く堆積していきました。この火山灰によって、木々はさらに深く埋もれたのです。  一般的に、土砂ダムに堆積した土砂はその後しばらくすると浸食されて大半が失われます。固まっていない緩い土砂のため、溜まった水がダム部分を乗り越えて流れるようになると、急速に浸食が進むのです。ところが、小豆原では土砂はあまり浸食されていません。土砂ダムを超えて流れた水が、尾根の硬い岩盤部分を流れたために、尾根が「砂防ダム」のような働きをして上流側の土砂の浸食を防いだのです。そのため、埋没林の長い幹が残されました。砂防ダムの働きをした岩盤は、市道小豆原線にかかる「稚児橋」の直下にあたり、稚児滝という滝になっています。

伊佐利川と小豆原川の合流点の下流にある稚児滝。

埋没林を埋めた地層

三瓶小豆原埋没林を埋めた地層の模式的な断面図。

 「埋没林の形成」で紹介した森が埋もれた過程は、地層から明らかになりました。  三瓶小豆原埋没林を埋めている地層は、上から順に「火山灰の二次堆積層(土砂ダムに堆積した火山灰の層)」、「火砕流の層」、「土石流の層」にわかれます。火山灰の二次堆積層の上に重なる「河川性の砂礫層」は埋没林の形成からかなり後の堆積層です。  「火山灰の二次堆積層」は、層理や葉理(ラミナ)と呼ばれる細かな縞模様が発達しています。この縞模様は水の流れによって出来たもので、ごくわずかな流速の違いで重さが違う粒が重なり、縞模様を作っています。  「火砕流の層」は、比較的細かい火山灰が中心で、数センチ大の礫を少し含んでいます。大きさが違う粒が均質に混じり合った状態で、粒子がガスと渾然一体となって流れ下る火砕流の地層に見られる特徴です。ただし、この特徴だけでは土石流との区別は困難ですが、この地層には炭化木片が含まれていて、炭化によって発生したガスが火山灰中を抜けた痕跡(二次噴気孔と呼ばれる構造)が認められることから火砕流と判断できます。  「土石流の層」は、火山灰が大部分ですが直径100cmを超える礫も含まれます。また、大量の倒木も含みます。火砕流と同じように様々な大きさの粒子が混じり合った状態で、土砂が水と一体になって流れてきたことを示しています。土石流の地層の中には、直径数メートルに達する地層のブロック(どこかで崩れ落ちた地層がそのままの形で運ばれたもの)も含まれており、土石流の威力が強大だったことを物語っています。  これらの地層の下には、埋没林の木々が生きていた時の森林の土「古土壌」があります。古土壌の表面には落ち葉が残り、地表に生えていたコケ、落ち葉の間に潜んでいた昆虫などが見つかっています。

縞模様が明瞭な火山灰に二次堆積層。埋没林の発掘調査時に撮影。

埋没林の木の種類

埋没林の樹種構成。立木(左)、倒木(右)ともスギ(緑色)が半数以上を占める。

 三瓶小豆原埋没林では、立木、倒木ともにスギが過半数をしめ、特に直径1mを超える木ははほとんどがスギでした。スギ以外ではトチノキ、ケヤキ、カシのなかまなどがありました。  埋没林の樹種構成から、縄文時代の三瓶山北麓の谷筋には純林に近いスギ林が広がり、その間にトチノキなどの広葉樹がわずかに生えていたことがわかります。  なお、現在、中国山地では小豆原付近の高さ(標高200m)にはスギの自生林は残っておらず、標高500mを超える高所に限られます。

埋没林発見の記録

1983年(昭和58年)

1983年(昭和58年)

地底に眠る巨木が初めて姿を現したのは、1983年でした。
水田の区画を整備する「圃場整備」の工事中に地中に立った状態の木が出現したのです。
この木は、工事の障害になることからある程度の深さまで掘り下げて切断されました。 それ以前にも、三瓶山麓の土中や三瓶川の河床から巨大なスギの倒木が出現したことが幾度もあったことから、この木も特に話題になることはありませんでした。

事態が動き始めたのは、巨木が出現してから何年も経った後のことでした。
高校の教員で三瓶火山の研究者でもある松井整司氏が付近に調査に訪れた際、小豆原地区の方が上の写真を見せたのです。
写真を目にした松井氏は驚き、その貴重性を直感しました。そして、定年退職後に独自で調査を開始しました。

1998年(平成10年)

1998年(平成10年)

松井氏は埋没樹が出現した水田でボーリング調査を行い、10m以上も堆積した火山灰層の下に、かつての谷底の土壌が存在することを突き止めました。
また、周辺の地質調査などから、小豆原の谷には三瓶火山の活動に伴って「土砂ダム」が形成され、そこに堆積した土砂が森林を埋めた可能性が高いことが明らかになりました。
松井氏の調査を受けて、島根県が「三瓶自然館拡充事業」の一環として調査に着手しました。
当初、地中レーダーなどを用いた探査で埋没樹を探しましたが確認できませんでした。そこで、掘削したところ立木の頂部が次々に発見され、地下に森が埋もれていることが確認されました。

1998年(平成10年)

地中に立つ巨木群は、いつ埋もれたものか。それを確認するために、島根大学で放射性炭素を用いた年代測定が行われました。
分析開始から1週間ほどで得られた年代値は「3500年前」。縄文時代後期に相当する値が得られたことで、島根県が「三瓶小豆原埋没林」と命名し発見を発表しました。

埋没の年代については、その後も複数の資料で測定が行われ、3700年前前後の値に集中することが判明しました。この値は、三瓶火山の最後の活動と一致し、その活動で形成されたことが明らかになったのです。
なお、放射性炭素の測定値は実際の年代(暦年代)とずれがあることが知られています。暦年代に補正すると、三瓶小豆原埋没林の形成年代は約4000年前になります。

1999年(平成11年)

1999年(平成11年)

試掘的な発掘調査で、約30本の立木が確認され、そのうち2本を掘り出して三瓶自然館に展示する計画が具体化しました。
1999年から地質調査を兼ねた発掘作業が始まり、この年は尾根に近い場所にあった根株状のスギの掘り出しが行われました。

1999年(平成11年)

根株の掘り出しを進めると、すぐ側から細めのスギが現れました。このスギは根本が斜面に沿うように曲がり、細い枝も残っていました。
埋没林に細い枝が残っていることは珍しいことから、このスギもあわせて展示することになりました。

1999年(平成11年)

樹木を埋めている地層は、森が埋もれた過程を示す貴重な情報を含んでいます。根元には古土壌が残り、そこには種子や昆虫遺体など森の生態系を示す情報が含まれています。
これらの調査を行いながら発掘作業を進め、調査終了後に標本として取り上げました。
取り上げた埋没樹は、現場に仮設したプールで「ポリエチレングリコール」の水溶液に漬け、保存のための処理を行いました。

2000年(平成12年)

2000年(平成12年)

2000年には、10m以上の幹を持つスギの発掘作業が行われました。
この発掘作業は大変大がかりなものでした。
まず、幹の周囲に直径80cm、長さ25mの鋼管を多数打ち込み、「連続地中壁」と呼ばれる直径8mの円筒形の地下構造物を設置しました。
そして、連続地中壁の内部を掘り下げると同時に鋼材で補強しつつ、根元までの発掘を進めました。

発掘はまず穴の半分を掘り、残した部分の壁面を観察しながら段階的に掘り下げました。
幹の上部は、水の流れで「土砂ダム」に堆積した火山灰で埋もれており、当初はその地層が根元まで続いていると予想されていました。
土砂ダムの中で静かに埋もれたので、幹が倒れなかったという予想です。
ところが、掘り下げると火砕流の地層が現れました。さらにその下からは土石流の地層が現れたのです。火砕流や土石流の直撃を受けなかったから倒れなかったという予想は外れ、小豆原の木々は直撃を受けながら耐えたことが判明しました。

2000年(平成12年)

根元までの発掘調査が完了した後、幹の切り出し作業が行われました。
この幹は根元が二又に分かれていたことから、その上を切断し、取り出すこととしました。
取り出しの作業も大がかりなものです。幹にはあらかじめ2カ所に穴をあけ、そこに鋼管を差し込んでおきました。その鋼管にワイヤを付け、2台の大型クレーンで幹を支えてから切断作業を行いました。
切断部の直径が2m近くに達する幹は、切断も容易ではありませんでした。熟練の職人が1mのチェーンソーを使って切断します。
チェーンソーが幹に触れた瞬間、鮮やかな木の香りが発掘坑内に充満し、時を超えて太古の森で木を切っているかと錯覚するほどでした。

2000年(平成12年)

切断を終えた巨大な幹は、クレーンで吊られ、地下から取り出されました。
4000年ぶりに樹木が地上に現れた瞬間です。
明るい日差しの下では、火砕流を受けた部分が周囲より黒く炭化していることを見て取ることができました。

2000年(平成12年)

輪切りで展示する標本を確保するため、幹で標本とは別に、1983年に切断された埋没樹の切り残しを使うことになりました。
切り残しを探し当て、発掘したところ、その周囲には多数の巨木が折り重なって倒れていました。
土石流が流れる過程で木々をなぎ倒し、ここまで運び込んできたものです。倒木は立木の下流側にからみつく形で埋もれており、土石流が下流から逆流してこの地点まで達したことが明らかになりました。