さんべ縄文の森ミュージアム(三瓶小豆原埋没林公園)

島根県大田市にある三瓶小豆原埋没林公園

イベント

月イチガク①「縄文の森出現 ~埋没林発見の物語~」

月イチガク「縄文の森出現 ~埋没林発見の物語~」

 

 

 三瓶小豆原埋没林は発掘調査によって1998年の晩秋に確認され、翌19991月に縄文時代の森であることが発表されました。その発見は、大田高校などで教鞭を執った松井整司氏の洞察力と情熱、そしていくつかの偶然が重なったものでした。

 

三瓶火山を研究

 松井整司氏は1933年に松江市で生まれ、島根大学で地質学を学んだ後に教員になりました。主に石東地域の学校で理科を教え、三瓶火山の活動史の研究を中心に大田市周辺の地学的テーマの解明に取り組みました。三瓶火山研究の先駆者と言える存在です。

 

1983年に出現したこと

 かつての小豆原地区は狭い谷に何段ものいびつな形の田が連なっていました。山間部ではどこででも見られた光景です。この田の区画を整えて機械が使える広い田に変える圃場整備工事が行われたのは1980年代でした。現在、縄文の森ミュージアムになっている場所では、1983年に圃場整備が行われ、排水路の掘削部分で2本の立木が出現しました。

 水田面から少し掘り下げたところで現れた立木は直径が1.5メートル前後ある巨大なもので、工事の「邪魔者」でした。工事を行っていた業者は、金属ワイヤーを立木の頭にかけて引き抜こうとしたそうです。しかし、びくともしないため、周辺を掘って取り除くことにしました。少し掘れば根が現れるという予想に反し、幹は深く続いていました。

 この時がひとつの「分岐点」でした。工事を進めるためには立木のほんの一部を取り除けば十分で、頭の部分を重機で壊してしまえば良かったのです。そうしていれば立木の写真が残ることはなく、松井氏が森の存在に気づくことはなかったでしょう。

 しかし、工事業者はさらに深く掘り進めました。掘った分だけ水が湧き出し、細かい砂の地層が崩れていくために掘り下げるのは困難でしたが、重機の数を増やしてまで作業を続け、深さ6メートル前後まで掘り下げました。なぜそこまでして掘ったのでしょう。それは「どこまで続いているのか」という興味と、木がいい値段で売れるという気持ちからでした。過去にも三瓶山周辺では水害や道路工事で横倒しの巨木が出現したことがあり、状態が良いものは銘木として高値で売れたことがありました。そのことを知っていたため、少しでも深く掘って長く採ればその分だけ儲けになると考えたのです。

 

写真を撮って残したこと

 圃場整備で巨木が出現したことは、工事関係者と近所の人が知っているだけで、その重要性と貴重性は気づかれないままでした。その時の写真が残っていなければ松井氏が地下の森に気づくことはなかったはずです。

 写真を撮ったのは、巨木が出現した水田の道路向かいに住んでいた竹内哲夫氏でした。写真撮影が好きだった竹内氏は掘った穴に立つ巨木に驚き、それが切られるまでの場面を写真に収め、アルバムに整理するだけでなく、何枚かプリントして近所の人に渡したのでした。松井氏に写真を見せた吾郷忠芳氏は、そのプリントをもらって保管していました。

 

松井氏が写真を手にしたこと

 1990年、小豆原地区を訪れた松井氏は1枚の写真を目にしました。そこには1983年に出現した巨大な立木が写っており、松井氏は地下に埋もれた森があると直感しました。火山活動による堆積物の分布と埋没林が「森の化石」として地質学的に重要であることを知っていたため、価値に気づくことができたのでした。

 松井氏が巨木の写真を目にするきっかけは、吾郷氏が近くの地層について松井氏に尋ねたことでした。この時にもひとつの偶然がありました。

 面白い地層があるから見に来てどういうものか教えて欲しいと頼まれた松井氏は、吾郷氏の案内で多根の地層を見に行きました。その地層は、松井氏にとっては珍しいものではなかったそうです。後に、松井氏はこのように語っています。

「その地層は別に面白くなくて、そのことがわしの顔に出ていたんだろうな。吾郷さんは(わざわざ来てくれたのに)申し訳ないと思って何か面白いものを見せようとしたんだろう。ちょっと待っててくれと言って、家の奥から何枚かの写真を持ってきてわしに見せてくれた。あの時の地層が面白かったら、写真を見ることはなかったかも知れんだ。」

 

 松井氏が地層を見に行ったことが“無駄足”に終わったことで、巨木の写真を目にすることになったのです。吾郷氏が地層調査を頼まなければ、その地層が興味深いものだったら、松井氏が写真を見ることはなく、埋没林の発見はなかったかも知れないのです。

 

調査に取り組んだこと

 松井氏は地下の森を見つけ出すことを決意し、平成5年(1993年)度で川本高校の校長を最後に定年退職すると、本格的に調査をはじめました。近隣住民からの聞き取り調査や周辺の地層調査には、三瓶自然館も協力しましたが、最も肝心な地下の調査は、松井氏が自らの退職金の一部を使って行いました。

 大田高校の教え子のひとりに地質調査業の大田技術コンサルタントの月森勝博氏がいます。1994年、松井氏は「実費」でボーリングを行うことを依頼し、月森氏もこれに応えて自らボーリングマシンを操って小豆原の水田を調査しました。複数のボーリングを行い、水田の地下には10メートル以上の厚さで三瓶火山の火山灰層があることとその下にかつての地表にあった「古土壌」があることを突き止めました。何よりも、立木が根を張って残っていることを決定的にしたのは、古土壌に張った状態の根を掘り当てたことでした。その根は生きている木のように新鮮で、枯れ枝が土中に埋もれたものではないことが明らかでした。

 

島根県が発掘したこと

 松井氏の調査によって、地下に巨木の森が残っていることはほぼ確実になりましたが、発掘には大きな費用がかかります。この発掘が実現したことにも幸運がありました。

 当時、「全県フィールドミュージアム」という構想のもと、島根県は構想の核となる博物館の設置を検討していました。自然博物館を作る案として、松江市などの都市部に作る案と既存の三瓶自然館を増床して博物館化する2案がありました。自然館増床案では展示の中心として地下の森が想定されて、発掘によって確認できればこの案で進むことに内定したのです。

 地下の森を確認するための発掘が県によって行われ、199812月に複数の立木が出土、年代測定によって速報値「3500yBP(放射性炭素年代値)」が得られたことで縄文時代の森であることが確定し、「三瓶小豆原埋没林」と命名されて発表されたのでした。

カテゴリー 教室
日時
会場 さんべ縄文の森ミュージアム
定員 20名
料金 入館料
備考 年間パスポートで月イチガクに参加できます。
現地参加は要予約。

お申込み