さんべ縄文の森ミュージアム(三瓶小豆原埋没林公園)

島根県大田市にある縄文時代の森。日本遺産「石見の火山が伝える悠久の歴史」構成文化財

イベント

<実施済アーカイブ>月イチガク⑩ 波根に水海ありけり ~消えた湖の記憶~

 

 かつて、大田市東部の久手町と波根町にまたがる低地に湖がありました。波根湖と呼ばれたこの湖は、湾が砂州で閉ざされてできた潟湖として形成され、近代の食糧不足の時代に干拓によって姿を消しました。日本の近代干拓の先進例であったこの湖の自然と開発の歴史を紹介します。

 

海が閉ざされてできた湖

 湾の入口や海岸に平行に砂州が発達することで内側に取り残された水面を「潟湖」と呼びます。まれに、溶岩流によって閉ざされた潟湖もあります。島根県では、中海と宍道湖、神西湖があります。全国で水域面積上位10位までの湖では、中海(5位))、宍道湖(7位)のほかに、霞ヶ浦(2位)、サロマ湖(3位)、浜名湖(10位)が潟湖です。

 潟湖は完全に閉ざされずに海につながる水道が残ることが多く、その場合は淡水と海水が混じる汽水域を形成しています。海と陸の接点にあたる環境が潟湖と言えるでしょう。

 

潟湖を調べる

 筆者は、島根大学の学生時代に宍道湖中海を中心に、潟湖の堆積物から古環境を調べる研究室に所属していました。湖の底には静かに泥が堆積し続けていて、その中には化石や科学的な成分など、過去の環境を知る手がかりが含まれています。汽水域は海面のわずかな変化や周辺の地形変化を敏感に反映する環境でもあり、調査対象として興味深い存在です。宍道湖と中海についてはある程度の情報が得られており、韓国を含めた他地域の潟湖や、中国内陸部の塩湖、さらにヒマラヤの氷河湖決壊でできた湖に範囲を広げて調査を行っていました。その頃に、波根湖の調査に取り組み、ボーリング調査の他、周辺の地形や干拓の歴史を含めて調査を行いました。その成果は1997年に発行した報告書、「波根湖の研究」にまとめ、それを簡易にした「波根湖って知っていますか」という冊子を大田市の小中学生に配布しました。

 

大きく変化した地層

 波根湖の堆積物は柔らかい泥でした。ある程度の規模がある湖沼の堆積物は、河口や砂州に近い部分以外は基本的に泥です。研究は、ボーリングによって得られた太さ86mmの柱状の試料(コア)を切ってその断面を観察することから始まります。さまざまな分析が可能ですが、何よりも目で見ることが肝心なのです。

 波根湖の試料を切っていると、20m分の上部は目で見える化石を含まない泥、中部は貝化石を含む泥、下部は再び化石を含まない泥でした。これだけでも、波根湖の環境がある時代を境に変化した可能性が想像できました。

 

季節を記録した地層

 地層の状態を詳細に記録する方法として、コアのレントゲン写真を撮影しました。これにより、表面からはわからない堆積構造や化石の有無を知ることができます。下部の写真を現像した時、明瞭な縞模様が浮かび上がりました。厚さ1~3mmの細かい地層が白黒の濃淡で見えていたのです。それまで、国内では福井県の水月湖でしか確認されていなかった「年縞」でした。湖では夏期にプランクトンが多く発生して沈み、冬期にはそれが少ない分、粘土の割合が多くなります。繰り返し堆積した地層が乱されずに残ったものが年縞です。

大半の湖沼では、湖底に生物がいて細かい地層を乱しますが、例外的に生物がいない場合に年縞が残されます。波根湖の湖底は、ある時期まで生物が棲めない特殊な環境だったため、1年ごとの地層が残されたのでした。

 

掛戸開削

 干拓前の波根湖は掛戸と呼ばれる切り通しで海と通じていました。地元の伝承では、14世紀に岩盤を切り開いて掛戸が作られたと伝わります。掛戸水路を作った理由は、波根湖は閉鎖的な状態だったために大雨時に増水して氾濫するため、その対策として水路を確保したものでした。

 同時期に中国の文書では石見の港として「ハネ」と読める地名があり、波根湖に面する地域の地名に「大津」があることからも、波根湖が港として使われたと考えられています。排水不良を起こす湖に、交易に使われる規模の船が入ることができたのか、波根湖を巡る歴史の謎です。

 

波根湖の水田開発

 江戸時代には全国で新しく水田を開発することが盛んに行われました。波根湖の浅瀬も新田開発の対象となり、1762(宝暦12)年から1767(明和4)年に大森代官をつとめた川崎平右衛門がそれを指揮したとされます。東京府中出身の川崎平右衛門は、農政に長けた人物で各地の新田開発を指揮したことが知られています。

 この水田開発も「干拓」と呼ばれることがありますが、基本的に埋めてによって陸化するもので、後に行われた干拓とは方法が異なるものでした。

石東の名勝地

 大正時代の新聞記事に、「石東随一の名勝地」として波根湖の湖上望楼が紹介されています。旅館の宴会場が湖上に設けられていたもので、新聞記事は当時の波根の賑わいを伝えます。その頃、出雲今市駅(現出雲市駅)から石見大田駅(現大田市駅)まで延伸されたばかりの山陰本線で、芥川龍之介が波根を訪れ、水月亭(現金子旅館)に泊まって波根の海に遊んだことが、龍之介を招いた友人の井川(恒藤)恭の日記「翡翠記」に記されています。

 

近代干拓の先駆

 昭和になってから、慢性的な食料不足を解消するために波根湖の干拓が計画されたものの、第二次世界大戦に突入したことが影響して実現しませんでした。戦後、食糧増産と復員した兵士の雇用確保を目的に干拓が事業化されて、1950年に完成しました。大原川の堤防は干拓堤防で、その内側の広い範囲が海面下の低地です。ポンプによって常時揚水することで維持されている土地です。

海水が流入する水域を動力によって干拓した近代干拓として波根湖は日本で最初に乾陸化された場所でした。

 

汽水湖干拓の課題噴出

 干拓された波根湖で最初に作付けされた稲は、豊富な栄養によって育ちすぎる状態でした。翌年の作付けでは、塩と酸による成長障害が発生しました。刈り取り後に水を抜いたことで、地中にあった塩が地表に上昇したことで塩害が発生し、黄鉄鉱として地中に固定されていたイオウが酸化して亜硫酸が生じたことで酸性障害が発生したのでした。

 その対策として、大量の石灰を投じて中和することと水を完全に抜かずに塩の上昇を抑えることが行われました。前例がない事案で、手探りでの対策でしたが、この経験は八郎潟干拓を始めとする大規模干拓事業に活かされたのでした。

カテゴリー 教室
日時
会場 さんべ縄文の森ミュージアム
定員 20名(webでの参加は自由です)
料金 入館料