あんたが人生の主人公!全力で遊び、学び、自然の中で命と向き合う 陽氣な狩人 今田さん

2021.03.31

 

 

名刺の肩書きは「遊びの達人」!
 

浜田市弥栄町で人気のうどん屋さん「陽氣な狩人」の今田孝志(いまだ たかし)さん。
 

猟師という一面もお持ちの今田さんに、自然と調和し命をいただくという生き方や様々な取り組みについて伺いました。
 

(※構えているのは手作りおもちゃの銃。本物の猟銃は厳しく管理され、人目にふれる事はありません)

 

 

―田舎カフェ&キッチン「陽氣な狩人」は、うどん屋なのに猪肉の料理も提供されるんですね。

しかも、全くクセや臭みがありません。(写真:猪肉さっと炒め)

 

 

これはね、儂が獲ってきた猪でね、ちゃんと処理をすれば猪の肉は美味しく食べられるんよ。
 

臭みが残っとる猪肉は、血抜きが甘かったり、泥や糞などの汚れの臭いが肉に移ってしまっとるんよね。
 

ここには加工場も整備しとるけぇ獲ってから加工までをちゃんと管理して、おいしい猪肉を提供することができるんよ。

 

 

―ご自分で狩猟を始めたきっかけはなんだったんですか?

 

先輩に元自衛隊員の猟師がおってね、ある時道でばったり出会ったら、今から猟に行くっちゅうんよ。 


儂はそん時、他の用事があったんでついて行かれんかったけど、どうしても気になって別の日に電話して今度連れてってくださいってお願いしたんよ。
 

それが初めての猟。先輩と猟犬4匹と一緒に山に入ってみたらすごかったんよ。猟犬が藪の中に入ってワンワンワンワンって吠えたらイノシシが飛び出て来て、それを先輩がドーンって撃ったら猪がバターッと倒れてね。こんな世界があるんだ!思うて憧れてしもうたんよ。

 

 

それで狩猟免許を取ったんだけど、その時は、市街地でうどん屋をやっとったから町中では猟犬を飼えんじゃろ。 


それで、ある時に山小屋を借りて女房にわがまま聞いてもらって別居しながら猟犬と生活したわけよ。
 

猟は、11月から2月の4ヶ月間が解禁の時期でその時は猟のことだけを考えて生活したんよ。それで、自然の中で猟犬の性格とかイノシシの生態とかを勉強したんよね。結局、5年間くらいそんな生活をしたね。

 

 

―猟とは、具体的にどのように行うのですか?

 


猟犬の一番賢いのを軽トラの助手席に乗せて窓を開けて山道を走るんよ。それで、猪の臭いがしたらクンクン、クンクンって鳴いて教えてくれるんよ。
 

ワンワンとは鳴かんのよ。これ何でかわかる?大きな声で鳴くと猪が逃げることを知っとる。
 

それで、車を止めて残りの4匹と一緒に放すと藪の中にサッと入って行って、吠えながら猪の前後左右を取り囲んで動きを封じるんよ。そこに儂が入って行って鉄砲で撃つんよ。

 

 

犬たちも自分の獲物だぁ思って猪を引っ張るんで、まず褒美をやるんよ。
 

山で猪の腹を開けて内臓を取りだして、心臓を5等分にして、「ええか、この猪の命はお前たちが継ぐよ」言うて食べさせるんよ。
 

そうすると犬たちもあれを獲ったらこれが貰えるってどんどん猪の臭いを覚えるんよ。

 

 

さっき、一番賢いって言った猟犬はね、姫っていう名前。
 

ある時の猟でムジナの穴に自分で土を掘って入って行ったんだけど、掘り出した土が自分の背後を埋める形になって出てこられんようになって。
 

絶対出しちゃるけぇのって掘り返したんだけど、もう死んでしもうとったんよ。
でもね、猟をするんだけぇ、そういうこともあるんよ。

 

全部が自然の一部で、全ては調和の中でのことよ。
猪が少ない年は、猟を控える。そうせんと調和した世界が崩れてしまうけぇね。
 

人も猪も自然という奇跡の営みの中で生かされとるんよ。だけぇ、過ぎたことをしちゃいけんのよね。
 

今、弥栄の山にさらに風力発電の風車を増やす話が出とるんだけど、人間の都合や利便性の追求のために都会の電力会社が田舎の自然の調和を崩すようなことがあっちゃ儂はいけん思うんだけどね。

 

 

―こうしてお聞きしているとどのような人生を歩まれてきたのか興味が湧きます。


別に特別なことはなんもないけどね、中学の時に三隅の海で魚釣りをしに行ったわけよ。
その時に、沖を航行する船を見て「あれに乗って外国に行きたい!」って思ったんだね。
 

それで、どうすればいいか周りの大人たちに聞いて水産高校(島根県立浜田水産高等学校)に入ってね、あまり勉強はしてなかったけど(笑)
 

ちゃんと卒業して運良く新和海運(現NSユナイテッド海運株式会社)っていう会社に就職できて晴れて船乗りになったんよ。
 

司厨に配属されて一番下っ端のボーイとして乗船したんだけど、ボーイって言っても厨房のことだけじゃなく何でも屋として船長の頭をカットしたりさ、全ての部屋のベットメイクや掃除をしたりせんといけんのよ。
 

でも、あの頃は楽しかったよ。ニューカレドニアとかドバイ、バンクーバーやインドにも行ったね。東京湾で酔うたのは儂くらいなもんでね。(笑)それで4年くらい船に乗ってたかな。

 


―当時は気軽に海外に行ける時代じゃないので、とても貴重な経験をお持ちですね。

その後は、何をされていたんですか?

 

それからいろんなことをやって、しばらく広島で珈琲チェーンのお店の店長をさせてもらったね。
1日の売り上げが全国3位になって社長賞をもらったこともあるんよ。
 

30くらいまでは気の赴くまま好きに生きとったね。まあ、今もそうだけどね。(笑)

 

 

それで田舎に戻って来てから喫茶店でもやろうかと思ってたんだけど、親戚が地元のうどん屋が手伝いを探しとるって聞いてお前どうか?って言うんでうどん屋の道に入ったんよ。
 

そんなに長くするつもりはなかったんだけど、初めに出した「うどんの今田」から「陽氣な狩人」まで気づくともう40年よ。
 

大きなところからウチでお店を出さんか?って誘われたこともあったけど、儂はね、お客さんと距離感が近い方が好きだし、自分の好きなようにやりたいってのもあって断ったんよ。

 


ある時、お客さんが冗談でチョコレートパフェを注文してきたんよ。
当然、うどん屋としてのメニューにはチョコレートパフェなんてないんだけど、よっしゃ出してやろう!と思ってね、店にある物で作って何気ない顔して「お待たせしました〜」って出したんよ。そしたら驚いてね。
 

お客さんがボケてくれたら儂がツッコム。そいうのが楽しいんよね。
 

儂はね、人が喜んで笑顔になるのを見るんが好きなんよ。
 

今でも喫茶店をやりたい気持ちはあるんだけど、親子三代に渡って食べに来てくれる方もおるし、大将の味が好きだけぇって言われたらなかなか辞められんよね。(笑)

 

 

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