さんべ縄文の森ミュージアム(三瓶小豆原埋没林公園)

島根県大田市にある三瓶小豆原埋没林公園

お知らせ

月イチガク「銀(しろがね)の山を掘る」1月27日開催しました

2024.01.28

127日(土)の月イチガクは、石見銀山遺跡を世界遺産へ導いた発掘調査の成果を中田健一さん(大田市石見銀山課)にお話していただきました。

 中田さんは遺跡の意義と価値を明らかにする目的ではじまった調査を担当され、2007年の世界遺産登録を実現した立役者のひとりです。TBS「世界遺産」、NHK「ブラタモリ」などメディアへの出演機会も多く、調査だけでなく石見銀山の価値を広く伝えることにも取り組んでいらっしゃいます。

 

 石見銀山遺跡で最初に発掘調査が行われたのは1983年でした。この年に「石見銀山総合整備計画」が策定され、その後の歩みの起点となる年です。石見銀山遺跡は1969年に国の史跡に指定されていましたが、それまでは地上に残る建物や坑口(坑道の入り口)などの遺構群が知られているだけで、埋蔵文化財として地下に残る遺構などの存在はほとんど分かっていなかったようです。この時の調査で炉跡などの遺構が確認されています。(この年は縄文の森の発見につながる巨木が出現した年でもあります。)

 

 1992年には仙ノ山の山頂に近い石銀地区での調査が始まり、1997年までの調査によって石銀は採掘から精錬まで行う場であったことと、人々が暮らす都市的な町が存在していたことが明らかになりました。銀の精錬技術である「灰吹法」を裏付ける鉄鍋や地面に掘られた炉跡の発見は石見銀山遺跡の歴史的な価値を証明するものでした。また、山の上に町があったことも鉱山遺跡としての性格を現しています。

 

 その後、大森町地内の各所で発掘調査が行われ、製錬と生活に関する遺構と遺物が各所で確認されることで、少しずつ遺跡の状況が見え始めました。1995年には当時の澄田知事が石見銀山遺跡の世界遺産登録を目指すことに初めて言及し、翌年に建造物や文献などを含めた「石見銀山総合調査計画」が策定されて、埋蔵文化財以外の調査も始まりました。その頃、発掘調査の指導に訪れた専門家から「30年間調査を続けたらこの遺跡の様子が見えてくる」という言葉があったそうで、遺跡としての規模と複雑さ、奥の深さを物語る一言です。

 

 鉱山では生産品である金属そのものが現地に残ることがほとんどありません。発掘調査で製錬の中間製品の「貴鉛」と最終の精錬段階の「灰吹鉛」が発見されたことは、「銀」を直接示す資料であり、製錬工程を示す資料として極めて重要でした。その発見が世界遺産申請への準備段階であったことは幸運でもありました。中田さんは石見銀山を「運が良い遺跡」と表現しており、遺跡として残ったことやその後の経緯などさまざまな場面での偶然が「幸運」につながっています。20227月のNHK「ブラタモリ」では、梅雨の雨が続いて収録日の天候が心配された中で当日は晴天に恵まれ、その時も中田さんは「石見銀山は運が良い遺跡だから。」と口にされていました。

 

 大森の町並み一帯での発掘調査では、遺構や遺物の出土と同時に過去の水害による土砂堆積も確認されました。大森の町は幾度もの水害に見舞われており、堆積した土砂の上に幾度も町が再建されていました。町並みの下手にある城上神社付近の調査では、現在の道路面から3m下まで幾層もの遺構面と土砂堆積が確認されています。熊谷家住宅付近では1800年の大火を示す焦土などが確認され、現在の町並みは大火以降の町割りを留めるものと判明しています。

 

 大森地区の発掘調査に遅れて、温泉津町温泉津でも道路部分の発掘調査が行われ、陶器類は大森町を上回る密度で発見されています。温泉津では輸入陶磁器も多く、海外との交易を証明することにつながっています。

 

 発掘調査によってさまざまな事実が明らかになってきていますが、未調査の範囲も多く残されており、石見銀山遺跡の全体像を明らかにするためには今後も調査を継続する必要があると中田さんはおっしゃいます。同時に、発掘調査などで得られた情報を遺跡の面白さとして伝えることで、観光の魅力や地域の学びにつながることの大切さを指摘されて、月イチガクの参加者全員が大きく頷く様子が印象的でした。