さんべ縄文の森ミュージアム(三瓶小豆原埋没林公園)

島根県大田市にある三瓶小豆原埋没林公園

お知らせ

8月12日の月イチガク「三瓶演習地と大社基地~島根に残る戦争遺跡~」開催しました

2023.07.23

 

 812日(土)の月イチガクは、「戦後史会議・松江」代表の若槻真治さんに、三瓶山にあった陸軍演習地「三瓶原演習地」と斐川飛行場を中心とする「大社基地」のふたつを、日本が進んだ戦争への歩みに位置づけてお話いただきました。

 日清戦争から太平洋戦争まで続いた戦争の歴史を客観的にふり返りながら、戦争遺跡を残し伝えることの意義とは何かを考える深い内容でした。

 

 

○日本が歩んだ戦争の道

 不平等条約から始まった戦争への道。明治政府が欧米と締結した不平等条約を解消し、列強と比肩する国家の樹立を目指すことが、日本が海外進出するきっかけでした。1894年の日清戦争から1945年に太平洋戦争が終わるまでの約50年間、対外出兵がない時代が10年続くことなく、戦争が続きました。世界的に「弱者」であった日本が、何とかして強者の仲間入りをしようとしてもがき、列強が行ってきた植民地政策などを真似て突き進んだ結果が、満州事変から太平洋戦争まで続く「十五年戦争」の泥沼でした。

 三瓶原演習地と大社基地は、図らずも戦争への道の始まりと終わりを物語る戦争遺跡です。

 

○三瓶原演習地

 陸軍の演習地だった三瓶原演習地は、大陸への進出を前提としたもので、全国で最初期に設置された演習地のひとつです。

 1891年に演習地として正式に開場される前から広島第五師団が演習に訪れ、はじめは兵士が民家などに寄宿する形で演習が行われました。その後、用地買収が始まり、志学に廠舎(兵舎)が建設され、東の原、西の原、北の原で砲撃訓練などが行われました。廠舎は現志学小中学校一帯に階段状に15棟(または14棟)の建物が並び、現在も構造物の一部が残っています。

 ほかには、東の原周辺に2ヶ所、西の原周辺に1ヶ所、小屋原の茶臼山に1ヶ所のコンクリート製の監的壕が残り、東の原のものは箱形、その他は地上部分が半円形で地下構造を持つものです。これらの建設時期は定かではないものの、1930年代とみられます。この頃、大砲の射程距離が延びて4000m前後になり、東上山から東の原方面へ向けて砲撃訓練を行ったと伝わります。東の原周辺の監的壕はその着弾を確認するためのものとされています。西の原はどこから射撃したかわかりませんが、男三瓶山の尾根を越えて北の原に着弾させることがあったといわれており、茶臼山の監的壕はその弾道を確認できる位置にあります。

 これまで三瓶原演習地について詳細な調査が行われたことはありませんが、軍用地境界を示す境界杭なども各所に残っており、これらと文献資料を照らし合わせることで演習地の実態に迫ることができる可能性があります。

 

○大社基地

 大社基地は、日本海軍航空基地で実践に使われたものでは最後に作られたものあり、滑走路の全体が残る全国でも数少ない航空基地のひとつでした。その中心だった斐川飛行場は、2021年に民間売却されて開発が進められ、現在は大部分が宅地化されています。

 航空基地の歴史は横須賀基地に始まり、初期は方形の飛行場の中心に格納庫が置かれる形でした。やがて八角形が主流になり、複数の滑走路が作られるようになります。この段階まで格納庫は中心付近にあり、風向きに応じた方向に素早く離陸出来る構造でした。末期になると滑走路は1本になり、周辺に複雑な形の誘導路を設けて航空機を分散して格納する形に変わります。空襲によって航空機が全滅することを避けるためで、大社基地の斐川飛行場はこの形です。

 大社基地斐川飛行場は19453月から建設が始まり、陸軍の設営隊と予科練生のほか、住民も女性や国民学校の児童まで動員して作られました。5月には運用開始していたというので、いかに急ごしらえだったかがわかります。

 滑走路は幅90m、長さ1500m、斐伊川の旧河道「新川」の地形を利用して作られています。コンクリートが不足するなか、大型の爆撃機「銀河」を離発着させるために平均の厚さ10cmでコンクリートをはっています。誘導路は滑走路の南側の丘陵際に続き、丘陵の谷を広げて航空機を格納する掩体が設けられました。爆弾庫などの地下壕も丘陵に設けられており、それらの多くが今も形を残しています。

 太平洋戦争末期に大社基地が設置されて、新型機だった銀河が配置されたのは、「本土決戦」に備えるためといいます。日本の海外進出が破綻し、本土が戦地になることが想定された「終わり」の段階での基地だったのです。

 

○おわりに

 明治時代以降、大陸への進出を進めた日本。この戦争は何だったのか。戦争を語る時、加害側、被害側のどちらかの視点に偏りがちですが、感情的な判断を一旦置いて客観的に歴史を俯瞰することが本質に迫るためには必要と考えさせられると同時に、答えのない問いなのかも知れないと感じる講座でした。

 日本が進めた戦争を準備する場として設置された三瓶原演習地、戦争末期の後がなき本土決戦に備えた大社基地。島根県に残る戦争遺跡の中でも最大規模のふたつの遺跡は、日本の戦争史の始まりと最後にあたる遺跡でもあります。この遺跡の総体を明らかにして、戦争を記録して伝えるための資料、教材として残すことは、これから取り組む必要がある課題だと思います。

 戦争遺跡は直接関わりがあった人の多くにとって「つらい思い出の場」でもあります。戦争の歴史に触れることがタブーのように思われてきた風潮もあり、基地関連の遺跡の意義を指摘しづらかったという事情もあり、これまで注目されにくかった存在でした。しかし、戦後78年が経過して過去のことになりつつある今だからこそ、戦争の歴史に向き合う必要があると感じます。