さんべ縄文の森ミュージアム(三瓶小豆原埋没林公園)

島根県大田市にある三瓶小豆原埋没林公園

お知らせ

月イチガク「縄文の森出現 ~埋没林発見の物語~」4月13日(土)開催

2024.03.10

4月13日の月イチガクは、縄文の森「三瓶小豆原埋没林」の発見に至るまでの物語と、森がどのように森に埋もれたかを解明した発掘調査について紹介します。

 

※ZOOMでのご参加はご予約不要です。
 現地参加の方は先着順になるため、ご予約をお願いいたします。

 

月イチガク「良港ゆのつは火山の贈り物!?」3月9日開催しました

2024.03.09

3月9日の月イチガクは、「良港ゆのつは火山の贈り物」と題して、石見銀山の港として、北前船の寄港地として栄えた温泉津港が地形に恵まれた理由を、火山との関わりに注目して紹介しました。

 

 

1.石見銀山を支え、ともに栄えた港

 温泉津は温泉津湾に面した港町で、温泉町としての顔をあわせ持ちます。港としての温泉津は、石見銀山が最盛期を迎えていた1500年代の半ばから物資供給の拠点として栄えました。枝湾の沖泊は銀の積み出し港として使われ、先に使われた鞆ヶ浦(仁摩町)とともに日本とヨーロッパをつないだ「銀の海路」の起点でもありました。温泉津地内の近年の発掘調査では、海外との直接的な交易をうかがわせる資料が出土しており、「国際港」の様相が明らかになりつつあります。

 1600年に徳川氏の支配に替わると銀の搬出は陸路に代わりますが、温泉津は引き続き石見銀山の物資供給拠点の役割を果たしますが、廻船業が盛んになることで港町としての独立性が強まり、北前船の主要な寄港地のひとつでした。1800年代後半からは地域内で窯業が盛んになり、陶器が主要な出荷品のひとつになりました。1900年代前半に山陰本線が開通すると、物流は鉄道に移行していき廻船業は衰退しますが、温泉津は現在もなお島根県の主要港のひとつであり、温泉津珪砂などを運ぶ大型船が出入りする光景を目にすることができます。

 

2.地形に恵まれた良港

 古くから港として使われた場所は波がおだやかな入り江などの地形に恵まれているものです。入り江に乏しい石見地方の海岸にあって温泉津は港として恵まれた地形です。

 温泉津湾は間口が狭く奥行きがあり、湾口にあたる西の笹島、東の櫛島の間は約460m、奥行きは約1200mあり、水深も最大20mに達する深い湾です。奥行きがあるおかげで、外海が荒れている時も湾内は比較的おだやかであるため、船の停泊地に適しており、水深のおかげである程度大型の船の出入りも可能です。

 枝湾が複数あることも特徴です。湾口に近い位置にある沖泊は狭く奥行きがある枝湾で、両岸が急峻な地形であることから重要物品の銀を管理するために好都合だったことから銀の積み出し港として使われたと思われます。他にも複数の枝湾があり、風向きに応じて廻船の停泊場所を使い分けたと伝わります。

 湾に面した海岸は急斜面で平地に乏しいことは、町の形成には不便な面もあったと想像されますが、狭い谷底平野を最大限に使って町を拡張した様子は温泉津の独特な景観につながっています。

 温泉津に良港をもたらした地形はリアス海岸です。これは複雑に入り組んだ海岸地形のことで、仁摩町から温泉津町の海岸がこの地形に相当します。

 リアス海岸は「沈水海岸」とも呼ばれ、氷期に海面が大きく低下した時に形成された谷が、後氷期の海面上昇で海没して入り江と岬がくり返される地形ができたものです。海面変化は全世界的な現象で、この条件だけではリアス海岸の成立には不十分です。温泉津にはどのような条件があったのでしょうか。

 当地のリアス海岸の範囲は新第三紀中新世に形成された凝灰岩類の分布域です。年代は1600万~1500万年前にあたり、この時代の海底火山の噴火で堆積した火山灰や軽石などが堆積してできた岩石です。これは軟質で侵食されやすく、川の流れによって狭く深い谷が形成されます。現在の陸上部分も小魚の背骨のような谷が刻まれています。

 多数の谷が海没して複雑な海岸線が形成された後、そこが堆積物で埋め立てられないことも重要な条件です。リアス海岸の一帯には小規模な河川しかなく、西に中国地方最大の江の川がありますが、その土砂は温泉津には供給されず、入り組んだ地形が埋まらずに残りました。温泉津の南には大江高山火山の山群が迫り、中国山地から流れ出る川はこの山群によってさえぎられます。いくつもの湾がある中でも、温泉津湾はすぐ背後に山が迫り、流れ込む川の集水範囲はごく狭いことが特徴です。そのため、当地一帯の湾の中で最も奥行きと水深がある湾が成立したのです。

 

3.温泉津は石の町

 温泉津の町は狭い谷に発展し、家屋の背後に岩壁が迫っています。中には岩壁を建物の一部に利用した例もあります。この岩壁の多くは人が切り出したもので、家屋の面積を確保する目的もあるでしょうが、石材に使う目的もあり、石切場の形を留める場所もいくつかあります。少し大げさですが、石切場の中の町という表現があてはまる様相です。

 町で切り出した石はやわらかく加工しやすい凝灰岩類で、土木的な用途としては十分な質を持ち、石垣や建物の土台などに使われています。町の中で石が調達できたことは、町と港湾の整備に好都合です。

 昔は船を留める係留柱(はなぐり岩)を岩盤の削り出しで作っており、特に沖泊に多数残存しています。加工が容易な石の部分布域ならではの使い方です。

 また、温泉津湾の湾口から外側の海岸にも多数の石切場跡が残ります。近隣で使う石を積み出ししやすい海岸で採ったことと、港で荷を下ろした船のバラストを兼ねて石を出荷したことを物語る石切場です。

 温泉津の西の福光地区では、石材としてより上質な凝灰岩類を産します。福光石と呼ばれて石像など細かい細工を要する石製品に多用され、石見地方を中心に広く流通しました。現在も生産が続き、硬質な石材に押されて凝灰岩類の生産が縮小した中、今や全国で唯一とも言える生産地になっています。