さんべ縄文の森ミュージアム(三瓶小豆原埋没林公園)

島根県大田市にある三瓶小豆原埋没林公園

お知らせ

月イチガク「墓場放浪記」9月2日に開催しました。

2023.09.16

  92日(土)の月イチガクは、「墓場放浪記~石塔から探る石見の歴史2~」と題して間野大丞さん(島根県教育委員会)にお話しいただきました。

 本題に先だって、現在の勤務先である島根県埋蔵文化財調査センターについて紹介。遺跡がある場所や存在が予想される範囲で開発が行われる時に発掘調査を行う組織です。同センターの仕事を紹介する中で、約30年前から、縄文の森の中村が発掘調査に関わってきたことにも触れられました。間野さんと中村は大学の同級生で、「墓場と酒場」を共に訪ねる“奇妙な”関係です。

 

 さて、本題。

 昨年の月イチガクでも紹介された墓石の基本についての再確認から始まります。墓石を建てる文化は平安時代の終わりから鎌倉時代にかけての頃、密教系の寺院から始まったそうです。埋葬の場としての墓は縄文時代から存在しますが、石塔とも呼ばれる現在の形が使われるようになったのがこの頃ということでした。石塔には五輪塔、宝篋印塔のようにいくつもの石を組み合わせる墓塔系と、シンプルな形の墓標系があります。

 墓を調べることの長所は、墓は基本的に建てられた場所に残り、石であるため長期間残ります。大きさや材質が身分を反映し、近世の墓塔には文字が刻まれることが多いために、そこから得られる情報もあります。文字がないものも、形態から時代を判断する考古学的手法によって歴史を探る手がかりを得ます。そして、全国にあり、野外にあることから気軽に調査できることも長所と言います。

 

 そして、今回は「動く」をテーマに話してもらいました。

 建てられた後は動くことが少ない墓ですが、使われる石はしばしば他地域から持ち込まれます。石の動きが、社会的な集団の単位を反映するとともに、流通経路を知る手がかりになります。

 例として紹介されたのは山口町の瑞応寺近くの道ばたにある石塔でした。この石塔は花崗岩という岩石でできています。一般的には「御影石(本来は神戸市御影産の石材名)」と呼ばれることが多く、昔からよく使われ現在は墓塔の主流です。

 山口町は花崗岩が分布する地域ですが、地元で石塔の石材を産出した気配は今のところありません。花崗岩製の石塔はごくわずかであるため、他所から運ばれてきたと考えられ瀬戸内海地域産の可能性があります。同じ山口町の殿屋敷遺跡にも似た形式の石塔があり、これらは1415世紀頃に存在した寺が建てたものと考えられると言います。その時代にどこか他地域の石工が作った石塔が海を経由して三瓶山のふもとまで運ばれてきたのです。

 瀬戸内海地域産の花崗岩は中世頃から各地に流通し、例えば中世に栄えた益田市には大型の花崗岩製石塔が認められます。ところが、同じ頃から石見銀山の隆盛と共に多いに栄えた大田市地域は花崗岩製の石塔が少ない地域です。経済力や権力の象徴でもある花崗岩製石塔が大田市に少ないのはなぜでしょうか。それはこの地域が西日本有数の石材産地でもあるからです。その石は柔らかい凝灰岩が中心で、温泉津町では「福光石」の名で今も採石が続けられています。近代以前は各地に石工がいましたが、特に温泉津町福光は多くの石工がいました。手近な場所で良質な(花崗岩に比べるともろいけれど)石を産出し、石工集団がいると他地域からわざわざ取り寄せる必要性が低く、地元産の石の割合が圧倒的に多くなるのです。しかも、石見銀山は流通都市でもあり、福光石は石見各地から北陸方面まで運ばれて使われました。

 

 動くのは石ばかりでなく人も動きます。石工がやって来て、現地近くの石を使って製品を作ることがしばしば行われます。石塔は製品になった形で運ばれることが多いのですが、石垣など大量に石を加工する場合は他地域の石工が呼ばれることがあり、石工の居住地と名前が残されていることもあります。

 出雲市には松江市で採れる来待石(凝灰質砂岩)を使って、福光の石工の形で作られた石塔があることも紹介されました。どう作ったか諸説あるそうですが、福光の石工が出張して、来待石を使って現地付近で作ったと考えることが妥当だろうということです。

 

 前回の墓場放浪記で石塔に必要な経費について質問があり、その回答例も紹介してもらいました。浜田市三隅町の龍雲寺に石見最大級の石塔があり、大森町の熊谷家、波積の石田家、渡津の渡津家(親戚関係)が願主となって建てたものです。その際、大坂、尾道、下関の石工に発注した見積が残っており、27両の金額を提示した尾道の石工が落札したそうです。貨幣価値を考えると、現代ならおよそ1800万円に相当するということで、かなり大きな経費がかかることがわかります。

 

 石塔は未調査、未知のものも数多くあり、参加者へ墓場を放浪する仲間の募集を呼びかけて、講座は終了しました。

 ちなみに、当日夜の「酒場」は、大田市内の居酒屋でした。