さんべ縄文の森ミュージアム(三瓶小豆原埋没林公園)

島根県大田市にある三瓶小豆原埋没林公園

お知らせ

 6月24日月イチガク「大田の礎を築いた吉永藩 ~加藤家4代の栄光と浮沈の中で~」開催しました

2023.06.25

624日の月イチガクは、「大田の礎を築いた吉永藩 ~加藤家4代の栄光と浮沈の中で~」と題して、和田秀夫さんにお話をいただきました。

 


1.
大田に「殿様」がいた

 江戸時代の大田市エリアは幕府直轄の天領で、他の多くの地域のように領主はおらず、幕府から派遣された奉行、代官が地域を治めていました。しかし、江戸時代の前半にあたる1643年からの40年間だけ、川合町吉永に陣屋を構えた領主「加藤家」がいた時代がありました。加藤家は吉永藩として安濃郡(現大田市の東部)の20ヶ村を所領し、領地の経済発展のためにさまざまな産業振興策を講じました。その取り組みには今も受け継がれているものがあり、大田市の礎を築いたと言えるのです。

 380年も前からのわずか40年の治世は、大田市に残る記録も少なく半ば忘れられた存在ですが、大田市にとってとても大切な40年間です。その歴史をたどることができる範囲でまとめた資料として「吉永藩-治世四十年とその前・後-」という冊子があり、市内の図書館などで閲覧できます。この冊子は2013年に大田中央公民館が発行したもので、今回の月イチガクの講師である和田秀夫さんらによる「吉永藩編集員会」の編著です。

 

 

2.大田に来た加藤家

 大田へ来る前の加藤家は、会津藩(福島県)で40万石を所領する大大名でした。会津藩初代領主の加藤嘉明ははじめ豊臣秀吉、のちに徳川家康に仕えて功績を残した人物で、伊予(愛媛県)20万石の領主として伊予松山城の築城と城下の整備を手がけ、その後、加領されて会津へ転封しました。

 ところが、嘉明の子である明成は家老の堀主水と争い、「会津騒動」と呼ばれる内乱を招きました。この内乱は、所領をすべて取り上げられる「お家断絶」にもなる不祥事でしたが、嘉明の功績や加藤家の家臣らが持つ技能を評価されたか断絶は免れ、1万石に減封されながらも存続を許され、大田に転封になりました。

 会津を後にした加藤家は家臣団を引き連れて、陸路を新潟まで移動した後、海路で大浦湊(五十猛町)に渡り大田に来たのです。家臣は約80名と考えられ、家族や職人らを合わせると500人以上が大田へやって来たと思われます。

 大田に来た一団は、はじめは大田南村に逗留して拠点となる地を検討し、はじめは大田北村の現大田市駅付近を候補としたものの水の便が悪いことから諦め、吉永に陣屋を構えました。

 

3.吉永藩の領地

 石見銀山領の一部を割いて加藤家に与えられた領地は、吉永村(川合町と大田町)、川合村(川合町)大田南村、大田北村、市野原村(大田町)、刺鹿村(久手町)、朝倉村(朝山町)、神原村、山中村、才坂村(富山町)、小豆原村、多根村、池田村、小屋原村、志学村、長原村、加淵村、上山村、円城寺村(三瓶町)、東用田村(長久町)で、安濃郡のかなりの部分にあたります。

 海岸に面して港がある鳥井村(鳥井町)と波根西村(久手町)、波根東村(波根町)は所領しておらず、飛び地として石見銀山領のまま残されました。港を代官所が直営するとともに、この一帯の海岸にあった松林は銀の製錬に用いる灰の原料を調達する場所だったことから、銀山領とされたそうです。また、出雲国との境で山陰道の島津屋関所があった仙山村(朝山町)も銀山領で、要所は吉永藩に渡さないという幕府の意図が見え隠れする領地でした。

 

4.吉永藩が大田で取り組んだ事業

 吉永に陣屋を構えた加藤家はさまざまな事業に取り組みました。明成は吉永の陣屋で蟄居し、明成の子、加藤明友が家長となりますが、明友は江戸で奏者番という重職についており、大田での事業を直接指揮したのは家臣らでした。会津で40万石の大藩を支えた家臣には優秀な人材が多くいたのでしょう。

 大田で取り組んだ事業としては、次のことが伝わります。

 

 ①三瓶の原に牛を放牧

 ②浮布の池に鯉の養殖

 ③山林植樹の奨励

 ④桐・柿・梅等の植樹

 ⑤漆器の製造

 ⑥土木事業(堤防改修・用水等)

 ⑦備荒貯蓄のため貯穀(慈恩の釜)

 ⑧吉永鉱山・鈩製鉄の試み

 ⑨交通路の整備

 

 三瓶山での放牧は現代まで受け継がれ、今も島根県でトップクラスの生産高を有する大田市の畜産業の基盤になっています。西の原の景観に代表される牧野景観は三瓶山の象徴的な景観で、国立公園指定の指定時(1963年)もこの景観が高く評価されました。この景観もまた吉永藩の事業に端を発するものです。

 吉永藩が手がけたとされ、今も使われている用水路として、三瓶川から取水して大田町の橋北と長久町の川北の田を潤す守山(森山)用水があります。加藤家は会津では磐梯湖からの用水を行っており、その技術を導入したことが想像できます。ため池の整備も行い、富山町の徳田池は吉永藩が作ったと伝わっています。天然湖沼の浮布の池でも、そこから取水する用水の整備を行い、周辺の水田に水を供給したと伝わります。

 吉永藩は領地での農産業の発展を中心にてがけ、家臣と領民の暮らしを支えたことがうかがわれます。40年の短い治世で文書などの資料もごくわずかしか残っていないにもかかわらず、この地を去ってから340年経った今も語り継がれていることは驚くべきことで、革新的な取り組みを数多く行ったことが想像されます。

 

5.石見銀山代官と周辺の領主にとっての吉永藩

 幕府から派遣される代官は重職とはいえ一役人の立場です。代官にとって、減領されたとはいえ、もとは40万石の大大名だった加藤家は「格上」の存在にあたり、加藤家にとっても代官の背後にいる幕府は決して逆らうことのできない存在です。吉永藩と代官の関係は互いに緊張感があったと想像されます。吉永藩に関する資料がほとんど残っていないことは、加藤家が大田を去る時に「格下」の代官に資料をゆだねることはなかったことが一因と考えることもできます。

 物部神社に残る石見銀山領の記録では、吉永藩が治世した40年間について「年殺」と書かれているのみで記載がなく、そのことからも代官にとって吉永藩が目障りな存在だったことが想像されます。

 領地が一部で隣接する松江藩の松平家にとっても、加藤家は一目置かざるを得ない存在だったと想像されます。実力で会津の大大名に出世した加藤家は、藩を経営する能力と実績があり、この点では松平家を上回っていたと思われます。領地は接していないものの、浜田藩主にとっても同じように一目置くべき存在だったでしょう。

 

6.大田を去ってからの加藤家

 加藤家は1682年に水口藩(滋賀県)へ移封されます。水口は京都に近く、東海道で最初の宿場町でもある要衝です。ここを任されたのは、大田での実績が評価されて格上げされたということで、所領も1万石から2万石に加領されました。

 また、琵琶湖の水利を中心にした産業振興が期待されたことも想像されます。

 水口で幕末まで領主を務めた加藤家は、明治時代以降も県知事を輩出するなど、滋賀県において重要な役割を果たしました。

 歴史に「if」はないと言われますが、もしも、吉永藩が幕末まで存続して加藤家が大田に残っていたら、大田市のみならず島根県の歴史が大きく変わっていたのかも知れません。吉永藩、加藤家とはそのように大きな存在だったのです。

 水口へ移封した加藤家ですが、家臣には大田に残った人もいました。幕末から明治にかけて、用水などの公共事業を幅広く手がけて大田の発展に尽力した岩谷九十老は、家臣の子孫にあたり、その仕事は加藤家の理念を受け継いだかのようでもあります。

 

7.おわりに

 吉永藩は40年の治世において、今も語られる数多の業績を残し、大田市の礎を築きました。その歴史を知る人は多くなく、歴史を探る資料も限られますが、大田という町を知る上では欠かせない存在です。

 和田秀夫さんは、大田市にとって重要な存在である吉永藩の歴史を解き明かし、伝えることが大切だと考えていらっしゃいます。そして、「大田の歴史と文化を知ることは、未来の大田を展望することと」して、市民が地域を知ることから未来が広がると指摘して、今回の講座を締めくくっていただきました。