さんべ縄文の森ミュージアム(三瓶小豆原埋没林公園)

島根県大田市にある三瓶小豆原埋没林公園

お知らせ

月イチガク「くにびきの山がつなぐ海の道」2月10日開催しました

2024.01.28

くにびきの山がつなぐ海の道

 2月10日の月イチガクは、出雲国ジオガイドの会の松原慶子さんにお越しいただき、風土記の時代から関わりがあった出雲と越(北陸)の話題を中心にお話いただきました。

 出雲国風土記では、冒頭の意宇郡の条にある「国引き神話」が古事記、日本書紀にはない独特の神話として知られています。この神話では、海の彼方の志羅紀(新羅)、佐伎の国と良波の国(隠岐か?)、そして高志の津津の三埼から国の余りを引き寄せたとします。高志は越と考えられ、神話に登場する地名は出雲が交流していた地域という説が有力です。

 越に関係する記述は国引き神話以外に何カ所もあり、関わりが深かったことが推定されます。意宇郡の拝志郷と母里郷に「越の八口」の地名があり、それが越のどこかはわかっていないのですが、北陸に残る出雲関連地名などを調べて「出雲を原郷とする人たち」などの著書がある岡本雅享さん(福岡県立大学教授)は能登半島の邑智潟平野(邑智低地帯)がその場所ではないかと指摘されています。羽咋市から七尾市に半島の基部近くを斜めに横切る低地で、西から船で近づいた時、低地と両側の山が「八」の字に見えてその奥に船が入る潟がある「口」という解釈です。出雲と越をつなぐのは海の道であり、港が拠点だったことを考えると、岡本さんの指摘はとても興味深いものです。

 また、出雲市古志町は、古志(越)の人が日淵川(今の保知石川)をせき止める堤を作り、その後住み着いた地とされ、北陸から土木技術が導入されたこともうかがわれる内容です。

 出雲と越の関係性を物語るものに「御穂須須美命(みほすすみのみこと)」という女神の存在があるそうです。この女神は「所造天下大神(天の下造らしし大神)」と越の「神奴奈宜波比賣(ぬなかわひめ)」の間に生まれた子とされ、美保神社(松江市)の境内社と能登の須須神社(珠洲市)などに祭られています。「所造天下大神」は出雲の「大国主命」と解釈され、御穂須須美命は両地域の関係の深さを示す存在と言えます。なお、御穂須須美命の縁で旧美保関町と珠洲市は姉妹都市縁組みを行い、松江市がそれを受け継いでいます。1月の能登半島地震では松江市はいち早く珠洲市への支援を行ったことが報道されました。

 ところで、陸路では遠い出雲と越ですが、海路ではどうだったのでしょうか。美保関から能登半島まで直線距離で約350km、若狭湾以外は沿岸を航海すると約400kmの距離です。直近とは言えない距離ですが、日本海を北上する対馬海流に乗ると出雲から越への航海は比較的容易だったと考えられています。逆に越から出雲へ渡る時は、春から夏にかけて北陸から山陰に向けて吹く北東風「あいの風」を使うと航海が楽になったと考えられます。あいの風は、北陸では幸せを運ぶ風といわれ、富山県では北陸本線を引き継いだ鉄道会社の名前に付けられています。江戸時代後半から明治時代の日本海航路(北前船)でもこの風を利用したといい、古代以来、日本海の海の道は対馬海流とあいの風に支えられてきたと言えるでしょう。

 対馬海流と出雲の関わりでは、神在月の神迎え祭にも関係する「龍蛇」があります。温暖な海域に生息するセグロウミヘビが対馬海流に乗って日本海を北上し、水温が低下する11月頃に力尽きて大社の稲佐の浜などに打ち上げられます。龍蛇が訪れると神々が出雲にやってくるとされ、打ち上げられた龍蛇は神社に大切に奉納されるそうです。

 月イチガクの後半では、思いがけないものが登場しました。

 日本海航路の話題から、福光石をはじめとする温泉津の石材が日本海航路で北陸まで運ばれ、北陸から運ばれる石もあったことを紹介し、その例として福井県の「笏谷石」の名前を紹介したところ、松原さんが荷物の中から笏谷石を取り出したのです。美保関の青石畳通りの一部にこの石が使われていることから持っていたということですが、偶然その名前が出たことに驚いた様子でした。

 縄文の森ミュージアムでは福光石を使った場所があり、講座後に参加者とともに笏谷石と比較して、見分けがつかないことを確かめました。見た目だけでなく質的にも大変よく似ており、そんな石がはるばる運ばれた理由は船の安定を確保するバラストを兼ねて石が荷積みされたことによると確認して、今回の月イチガクは終了しました。

月イチガク「銀(しろがね)の山を掘る」1月27日開催しました

2024.01.28

127日(土)の月イチガクは、石見銀山遺跡を世界遺産へ導いた発掘調査の成果を中田健一さん(大田市石見銀山課)にお話していただきました。

 中田さんは遺跡の意義と価値を明らかにする目的ではじまった調査を担当され、2007年の世界遺産登録を実現した立役者のひとりです。TBS「世界遺産」、NHK「ブラタモリ」などメディアへの出演機会も多く、調査だけでなく石見銀山の価値を広く伝えることにも取り組んでいらっしゃいます。

 

 石見銀山遺跡で最初に発掘調査が行われたのは1983年でした。この年に「石見銀山総合整備計画」が策定され、その後の歩みの起点となる年です。石見銀山遺跡は1969年に国の史跡に指定されていましたが、それまでは地上に残る建物や坑口(坑道の入り口)などの遺構群が知られているだけで、埋蔵文化財として地下に残る遺構などの存在はほとんど分かっていなかったようです。この時の調査で炉跡などの遺構が確認されています。(この年は縄文の森の発見につながる巨木が出現した年でもあります。)

 

 1992年には仙ノ山の山頂に近い石銀地区での調査が始まり、1997年までの調査によって石銀は採掘から精錬まで行う場であったことと、人々が暮らす都市的な町が存在していたことが明らかになりました。銀の精錬技術である「灰吹法」を裏付ける鉄鍋や地面に掘られた炉跡の発見は石見銀山遺跡の歴史的な価値を証明するものでした。また、山の上に町があったことも鉱山遺跡としての性格を現しています。

 

 その後、大森町地内の各所で発掘調査が行われ、製錬と生活に関する遺構と遺物が各所で確認されることで、少しずつ遺跡の状況が見え始めました。1995年には当時の澄田知事が石見銀山遺跡の世界遺産登録を目指すことに初めて言及し、翌年に建造物や文献などを含めた「石見銀山総合調査計画」が策定されて、埋蔵文化財以外の調査も始まりました。その頃、発掘調査の指導に訪れた専門家から「30年間調査を続けたらこの遺跡の様子が見えてくる」という言葉があったそうで、遺跡としての規模と複雑さ、奥の深さを物語る一言です。

 

 鉱山では生産品である金属そのものが現地に残ることがほとんどありません。発掘調査で製錬の中間製品の「貴鉛」と最終の精錬段階の「灰吹鉛」が発見されたことは、「銀」を直接示す資料であり、製錬工程を示す資料として極めて重要でした。その発見が世界遺産申請への準備段階であったことは幸運でもありました。中田さんは石見銀山を「運が良い遺跡」と表現しており、遺跡として残ったことやその後の経緯などさまざまな場面での偶然が「幸運」につながっています。20227月のNHK「ブラタモリ」では、梅雨の雨が続いて収録日の天候が心配された中で当日は晴天に恵まれ、その時も中田さんは「石見銀山は運が良い遺跡だから。」と口にされていました。

 

 大森の町並み一帯での発掘調査では、遺構や遺物の出土と同時に過去の水害による土砂堆積も確認されました。大森の町は幾度もの水害に見舞われており、堆積した土砂の上に幾度も町が再建されていました。町並みの下手にある城上神社付近の調査では、現在の道路面から3m下まで幾層もの遺構面と土砂堆積が確認されています。熊谷家住宅付近では1800年の大火を示す焦土などが確認され、現在の町並みは大火以降の町割りを留めるものと判明しています。

 

 大森地区の発掘調査に遅れて、温泉津町温泉津でも道路部分の発掘調査が行われ、陶器類は大森町を上回る密度で発見されています。温泉津では輸入陶磁器も多く、海外との交易を証明することにつながっています。

 

 発掘調査によってさまざまな事実が明らかになってきていますが、未調査の範囲も多く残されており、石見銀山遺跡の全体像を明らかにするためには今後も調査を継続する必要があると中田さんはおっしゃいます。同時に、発掘調査などで得られた情報を遺跡の面白さとして伝えることで、観光の魅力や地域の学びにつながることの大切さを指摘されて、月イチガクの参加者全員が大きく頷く様子が印象的でした。