さんべ縄文の森ミュージアム(三瓶小豆原埋没林公園)

島根県大田市にある三瓶小豆原埋没林公園

お知らせ

月イチガク②「イノシシ学~君はなぜ里に出てくるの?~」開催

2024.04.20

動物の視点から、その行動と心理を解き明かすことで共生と獣害対策の方法を探っている麻生大学の江口祐輔さんにお話をうかがいます。

日 時 5月18日 14時~15時30分

会 場 さんべ縄文の森ミュージアム ガイダンス棟

参加費 入館料300円(大人1名)

( 現地参加先着20名 要予約 /オンライン参加 予約不要 )

縄文の森有料案内ガイド(完全予約制)

2023.04.27

縄文時代の木々が立つ展示室でスタッフが案内ガイドを行う、予約制(個人は2週間前まで、団体は1ヶ月前まで)のガイドイベントです。入館料とは別途案内ガイド料が必要になります。

 

 

 【料  金】10名以下は1団体(個人でも)1000円、11名からは1名ごとに100円増

 ※入館されるグループ全員を参加者とします。

 ※学校や社会教育施設等による教育事業は無料です。

  高校生以下の、児童生徒が対象の教育事業はこちらをご覧下さい→予約・展示解説

 

 【所用時間】20~30分

 ※時間は目安です。

 ※参加者のご都合で時間を短縮する場合の減額はありません。

 

 

 【定  員】40名まで

 ※40名を超える場合は1ヶ月前までご相談ください。

  (先約その他の事情によって実施できない場合もありますのでご了承ください)

 

 【予  約】2週間前までに、電話(0854-86-9500)またはメールで受付

 ※都合により実施できない場合がありますのでご了承ください。

 

キーホルダー等の販売の制限について

2023.03.23

発掘時に出土木(立木と同じ約4000年前の木)を用いたキーホルダー等の商品は、材料の残りが限られるため数量限定で販売しています。

○お一人様5個まで
 キーホルダー、ストラップ等、出土木を用いた商品の合計を、お一人様5個までとします。

○ご来館者限定
 振り込み、商品発送による販売は中止させていただきます。なお、解説書「森のことづて」は従来どおり振り込みでの発送を承ります。

見学のしおり

2023.11.30

学校の活動などで三瓶小豆原埋没林を見学する場合のために、

さんべ縄文の森ミュージアム/見学のしおり」をご用意しています。

PDFで閲覧可能です。

(A4カラー8ページ)

小学校5年生三瓶研修

2023.03.16

大田市の小学校で実施される三瓶研修(5年生)のプログラムでさんべ縄文の森ミュージアムのご利用をお待ちしています。

解説では、縄文の森を通じて環境の移りかわりや三瓶山に関わることに加えて、学校ごとの地域学習につながる情報を紹介します。

研修の事前学習をオンラインや出前授業として行うこともできますので、お気軽にご相談ください。

月イチガク「縄文の森出現 ~埋没林発見の物語~」4月13日(土)開催

2024.03.10

4月13日の月イチガクは、縄文の森「三瓶小豆原埋没林」の発見に至るまでの物語と、森がどのように森に埋もれたかを解明した発掘調査について紹介します。

 

※ZOOMでのご参加はご予約不要です。
 現地参加の方は先着順になるため、ご予約をお願いいたします。

 

月イチガク「良港ゆのつは火山の贈り物!?」3月9日開催しました

2024.03.09

3月9日の月イチガクは、「良港ゆのつは火山の贈り物」と題して、石見銀山の港として、北前船の寄港地として栄えた温泉津港が地形に恵まれた理由を、火山との関わりに注目して紹介しました。

 

 

1.石見銀山を支え、ともに栄えた港

 温泉津は温泉津湾に面した港町で、温泉町としての顔をあわせ持ちます。港としての温泉津は、石見銀山が最盛期を迎えていた1500年代の半ばから物資供給の拠点として栄えました。枝湾の沖泊は銀の積み出し港として使われ、先に使われた鞆ヶ浦(仁摩町)とともに日本とヨーロッパをつないだ「銀の海路」の起点でもありました。温泉津地内の近年の発掘調査では、海外との直接的な交易をうかがわせる資料が出土しており、「国際港」の様相が明らかになりつつあります。

 1600年に徳川氏の支配に替わると銀の搬出は陸路に代わりますが、温泉津は引き続き石見銀山の物資供給拠点の役割を果たしますが、廻船業が盛んになることで港町としての独立性が強まり、北前船の主要な寄港地のひとつでした。1800年代後半からは地域内で窯業が盛んになり、陶器が主要な出荷品のひとつになりました。1900年代前半に山陰本線が開通すると、物流は鉄道に移行していき廻船業は衰退しますが、温泉津は現在もなお島根県の主要港のひとつであり、温泉津珪砂などを運ぶ大型船が出入りする光景を目にすることができます。

 

2.地形に恵まれた良港

 古くから港として使われた場所は波がおだやかな入り江などの地形に恵まれているものです。入り江に乏しい石見地方の海岸にあって温泉津は港として恵まれた地形です。

 温泉津湾は間口が狭く奥行きがあり、湾口にあたる西の笹島、東の櫛島の間は約460m、奥行きは約1200mあり、水深も最大20mに達する深い湾です。奥行きがあるおかげで、外海が荒れている時も湾内は比較的おだやかであるため、船の停泊地に適しており、水深のおかげである程度大型の船の出入りも可能です。

 枝湾が複数あることも特徴です。湾口に近い位置にある沖泊は狭く奥行きがある枝湾で、両岸が急峻な地形であることから重要物品の銀を管理するために好都合だったことから銀の積み出し港として使われたと思われます。他にも複数の枝湾があり、風向きに応じて廻船の停泊場所を使い分けたと伝わります。

 湾に面した海岸は急斜面で平地に乏しいことは、町の形成には不便な面もあったと想像されますが、狭い谷底平野を最大限に使って町を拡張した様子は温泉津の独特な景観につながっています。

 温泉津に良港をもたらした地形はリアス海岸です。これは複雑に入り組んだ海岸地形のことで、仁摩町から温泉津町の海岸がこの地形に相当します。

 リアス海岸は「沈水海岸」とも呼ばれ、氷期に海面が大きく低下した時に形成された谷が、後氷期の海面上昇で海没して入り江と岬がくり返される地形ができたものです。海面変化は全世界的な現象で、この条件だけではリアス海岸の成立には不十分です。温泉津にはどのような条件があったのでしょうか。

 当地のリアス海岸の範囲は新第三紀中新世に形成された凝灰岩類の分布域です。年代は1600万~1500万年前にあたり、この時代の海底火山の噴火で堆積した火山灰や軽石などが堆積してできた岩石です。これは軟質で侵食されやすく、川の流れによって狭く深い谷が形成されます。現在の陸上部分も小魚の背骨のような谷が刻まれています。

 多数の谷が海没して複雑な海岸線が形成された後、そこが堆積物で埋め立てられないことも重要な条件です。リアス海岸の一帯には小規模な河川しかなく、西に中国地方最大の江の川がありますが、その土砂は温泉津には供給されず、入り組んだ地形が埋まらずに残りました。温泉津の南には大江高山火山の山群が迫り、中国山地から流れ出る川はこの山群によってさえぎられます。いくつもの湾がある中でも、温泉津湾はすぐ背後に山が迫り、流れ込む川の集水範囲はごく狭いことが特徴です。そのため、当地一帯の湾の中で最も奥行きと水深がある湾が成立したのです。

 

3.温泉津は石の町

 温泉津の町は狭い谷に発展し、家屋の背後に岩壁が迫っています。中には岩壁を建物の一部に利用した例もあります。この岩壁の多くは人が切り出したもので、家屋の面積を確保する目的もあるでしょうが、石材に使う目的もあり、石切場の形を留める場所もいくつかあります。少し大げさですが、石切場の中の町という表現があてはまる様相です。

 町で切り出した石はやわらかく加工しやすい凝灰岩類で、土木的な用途としては十分な質を持ち、石垣や建物の土台などに使われています。町の中で石が調達できたことは、町と港湾の整備に好都合です。

 昔は船を留める係留柱(はなぐり岩)を岩盤の削り出しで作っており、特に沖泊に多数残存しています。加工が容易な石の部分布域ならではの使い方です。

 また、温泉津湾の湾口から外側の海岸にも多数の石切場跡が残ります。近隣で使う石を積み出ししやすい海岸で採ったことと、港で荷を下ろした船のバラストを兼ねて石を出荷したことを物語る石切場です。

 温泉津の西の福光地区では、石材としてより上質な凝灰岩類を産します。福光石と呼ばれて石像など細かい細工を要する石製品に多用され、石見地方を中心に広く流通しました。現在も生産が続き、硬質な石材に押されて凝灰岩類の生産が縮小した中、今や全国で唯一とも言える生産地になっています。

月イチガク「くにびきの山がつなぐ海の道」2月10日開催しました

2024.01.28

くにびきの山がつなぐ海の道

 2月10日の月イチガクは、出雲国ジオガイドの会の松原慶子さんにお越しいただき、風土記の時代から関わりがあった出雲と越(北陸)の話題を中心にお話いただきました。

 出雲国風土記では、冒頭の意宇郡の条にある「国引き神話」が古事記、日本書紀にはない独特の神話として知られています。この神話では、海の彼方の志羅紀(新羅)、佐伎の国と良波の国(隠岐か?)、そして高志の津津の三埼から国の余りを引き寄せたとします。高志は越と考えられ、神話に登場する地名は出雲が交流していた地域という説が有力です。

 越に関係する記述は国引き神話以外に何カ所もあり、関わりが深かったことが推定されます。意宇郡の拝志郷と母里郷に「越の八口」の地名があり、それが越のどこかはわかっていないのですが、北陸に残る出雲関連地名などを調べて「出雲を原郷とする人たち」などの著書がある岡本雅享さん(福岡県立大学教授)は能登半島の邑智潟平野(邑智低地帯)がその場所ではないかと指摘されています。羽咋市から七尾市に半島の基部近くを斜めに横切る低地で、西から船で近づいた時、低地と両側の山が「八」の字に見えてその奥に船が入る潟がある「口」という解釈です。出雲と越をつなぐのは海の道であり、港が拠点だったことを考えると、岡本さんの指摘はとても興味深いものです。

 また、出雲市古志町は、古志(越)の人が日淵川(今の保知石川)をせき止める堤を作り、その後住み着いた地とされ、北陸から土木技術が導入されたこともうかがわれる内容です。

 出雲と越の関係性を物語るものに「御穂須須美命(みほすすみのみこと)」という女神の存在があるそうです。この女神は「所造天下大神(天の下造らしし大神)」と越の「神奴奈宜波比賣(ぬなかわひめ)」の間に生まれた子とされ、美保神社(松江市)の境内社と能登の須須神社(珠洲市)などに祭られています。「所造天下大神」は出雲の「大国主命」と解釈され、御穂須須美命は両地域の関係の深さを示す存在と言えます。なお、御穂須須美命の縁で旧美保関町と珠洲市は姉妹都市縁組みを行い、松江市がそれを受け継いでいます。1月の能登半島地震では松江市はいち早く珠洲市への支援を行ったことが報道されました。

 ところで、陸路では遠い出雲と越ですが、海路ではどうだったのでしょうか。美保関から能登半島まで直線距離で約350km、若狭湾以外は沿岸を航海すると約400kmの距離です。直近とは言えない距離ですが、日本海を北上する対馬海流に乗ると出雲から越への航海は比較的容易だったと考えられています。逆に越から出雲へ渡る時は、春から夏にかけて北陸から山陰に向けて吹く北東風「あいの風」を使うと航海が楽になったと考えられます。あいの風は、北陸では幸せを運ぶ風といわれ、富山県では北陸本線を引き継いだ鉄道会社の名前に付けられています。江戸時代後半から明治時代の日本海航路(北前船)でもこの風を利用したといい、古代以来、日本海の海の道は対馬海流とあいの風に支えられてきたと言えるでしょう。

 対馬海流と出雲の関わりでは、神在月の神迎え祭にも関係する「龍蛇」があります。温暖な海域に生息するセグロウミヘビが対馬海流に乗って日本海を北上し、水温が低下する11月頃に力尽きて大社の稲佐の浜などに打ち上げられます。龍蛇が訪れると神々が出雲にやってくるとされ、打ち上げられた龍蛇は神社に大切に奉納されるそうです。

 月イチガクの後半では、思いがけないものが登場しました。

 日本海航路の話題から、福光石をはじめとする温泉津の石材が日本海航路で北陸まで運ばれ、北陸から運ばれる石もあったことを紹介し、その例として福井県の「笏谷石」の名前を紹介したところ、松原さんが荷物の中から笏谷石を取り出したのです。美保関の青石畳通りの一部にこの石が使われていることから持っていたということですが、偶然その名前が出たことに驚いた様子でした。

 縄文の森ミュージアムでは福光石を使った場所があり、講座後に参加者とともに笏谷石と比較して、見分けがつかないことを確かめました。見た目だけでなく質的にも大変よく似ており、そんな石がはるばる運ばれた理由は船の安定を確保するバラストを兼ねて石が荷積みされたことによると確認して、今回の月イチガクは終了しました。

月イチガク「銀(しろがね)の山を掘る」1月27日開催しました

2024.01.28

127日(土)の月イチガクは、石見銀山遺跡を世界遺産へ導いた発掘調査の成果を中田健一さん(大田市石見銀山課)にお話していただきました。

 中田さんは遺跡の意義と価値を明らかにする目的ではじまった調査を担当され、2007年の世界遺産登録を実現した立役者のひとりです。TBS「世界遺産」、NHK「ブラタモリ」などメディアへの出演機会も多く、調査だけでなく石見銀山の価値を広く伝えることにも取り組んでいらっしゃいます。

 

 石見銀山遺跡で最初に発掘調査が行われたのは1983年でした。この年に「石見銀山総合整備計画」が策定され、その後の歩みの起点となる年です。石見銀山遺跡は1969年に国の史跡に指定されていましたが、それまでは地上に残る建物や坑口(坑道の入り口)などの遺構群が知られているだけで、埋蔵文化財として地下に残る遺構などの存在はほとんど分かっていなかったようです。この時の調査で炉跡などの遺構が確認されています。(この年は縄文の森の発見につながる巨木が出現した年でもあります。)

 

 1992年には仙ノ山の山頂に近い石銀地区での調査が始まり、1997年までの調査によって石銀は採掘から精錬まで行う場であったことと、人々が暮らす都市的な町が存在していたことが明らかになりました。銀の精錬技術である「灰吹法」を裏付ける鉄鍋や地面に掘られた炉跡の発見は石見銀山遺跡の歴史的な価値を証明するものでした。また、山の上に町があったことも鉱山遺跡としての性格を現しています。

 

 その後、大森町地内の各所で発掘調査が行われ、製錬と生活に関する遺構と遺物が各所で確認されることで、少しずつ遺跡の状況が見え始めました。1995年には当時の澄田知事が石見銀山遺跡の世界遺産登録を目指すことに初めて言及し、翌年に建造物や文献などを含めた「石見銀山総合調査計画」が策定されて、埋蔵文化財以外の調査も始まりました。その頃、発掘調査の指導に訪れた専門家から「30年間調査を続けたらこの遺跡の様子が見えてくる」という言葉があったそうで、遺跡としての規模と複雑さ、奥の深さを物語る一言です。

 

 鉱山では生産品である金属そのものが現地に残ることがほとんどありません。発掘調査で製錬の中間製品の「貴鉛」と最終の精錬段階の「灰吹鉛」が発見されたことは、「銀」を直接示す資料であり、製錬工程を示す資料として極めて重要でした。その発見が世界遺産申請への準備段階であったことは幸運でもありました。中田さんは石見銀山を「運が良い遺跡」と表現しており、遺跡として残ったことやその後の経緯などさまざまな場面での偶然が「幸運」につながっています。20227月のNHK「ブラタモリ」では、梅雨の雨が続いて収録日の天候が心配された中で当日は晴天に恵まれ、その時も中田さんは「石見銀山は運が良い遺跡だから。」と口にされていました。

 

 大森の町並み一帯での発掘調査では、遺構や遺物の出土と同時に過去の水害による土砂堆積も確認されました。大森の町は幾度もの水害に見舞われており、堆積した土砂の上に幾度も町が再建されていました。町並みの下手にある城上神社付近の調査では、現在の道路面から3m下まで幾層もの遺構面と土砂堆積が確認されています。熊谷家住宅付近では1800年の大火を示す焦土などが確認され、現在の町並みは大火以降の町割りを留めるものと判明しています。

 

 大森地区の発掘調査に遅れて、温泉津町温泉津でも道路部分の発掘調査が行われ、陶器類は大森町を上回る密度で発見されています。温泉津では輸入陶磁器も多く、海外との交易を証明することにつながっています。

 

 発掘調査によってさまざまな事実が明らかになってきていますが、未調査の範囲も多く残されており、石見銀山遺跡の全体像を明らかにするためには今後も調査を継続する必要があると中田さんはおっしゃいます。同時に、発掘調査などで得られた情報を遺跡の面白さとして伝えることで、観光の魅力や地域の学びにつながることの大切さを指摘されて、月イチガクの参加者全員が大きく頷く様子が印象的でした。

月イチガク「水をまつる~三瓶のわき水と信仰~」12月2日開催しました

2023.12.03

いにしえから現在まで、三瓶山とそこから流れ出る静間川を人々はどのように見てきたのでしょう。

水にかかわるまつりと信仰について、参院民俗学会の多田房明さんにお話していただきました。

 

静間川の河口に近い大田市鳥井町に三瓶山の古名を名乗る「佐比賣山神社」があります。

山が見えない場所に山をまつる神社があることが不自然だと多田さんは指摘します。

 

この神社には様々な神がまつられていて、いくつもの神社を合祀したり、他の信仰を取り入れてきたことがわかります。佐比賣山神社が立地する場所の字は「八幡」で、この場所には八幡宮があり、よそにあった佐比賣山神社を合祀したときに社名もこれにあわせたそうです。鳥井の人が佐比賣山神社を大切にしていたことの現れといえます。

 

合祀前の佐比賣山神社は鳥井南丘陵の山裾にあり、丘陵の上からは南に三瓶山を望むことができます。その場所には鳥井南遺跡があり、ここでは三瓶山をまつったと考えられる祭祀遺構が発見されています。巨木の下で長期間にわたって祭祀が行われていたことがわかっており、この祭祀が佐比賣山神社のルーツと考えると、鳥井町にこの神社があることの意味が浮かびあがります。

 

山そのものへの信仰とは別に、鳥井海岸では物部神社の藻刈り神事が行われます。和布を刈る重要な神事で、もともと鳥井海岸付近に静間川の河口があったことに由来すると考えられます。

物部神社では藻刈り神事の翌日に御田植祭が行われます。

一年の豊作を祈念する祭りで、三瓶山から田の神「サンベイ」を招き、三瓶山の田植え囃子が奉納されます。農耕を支える水源である三瓶山への信仰です。

御田植祭と実りを祈る9月の田面祭(たのもさい)で重要な社は、側社の「一瓶社」です。この社は大瓶をまつっていて、12月の造酒神事ではこの瓶を使って酒を仕込みます。三瓶山をまつる社としての「一瓶社」が重要な神事の主役であることは、物部神社のルーツが三瓶山と静間川の水への祈りであることを物語っています。

 

三瓶山を望み、そこから流れ出る静間川が大きな支流のひとつ忍原川と合わさる地に物部神社がまつられ、静間川が海に注いでいた鳥井で藻刈神事が行われるという関係で、鳥井は海からやってくる神を迎える場所でもあるそうです。物部神社の一の鳥居があったことが「鳥井」の地名の由来とも言われます。

 

静間川の源流に注目すると、そこには浮布の池があります。

この池には邇弊姫神社がまつられていて、正面が池を向いていることが特徴で水への祈りであることを表しています。7月の例大祭では、池の北端から船で参り、池ノ原の田植囃子を奉納して豊作を祈ります。

 

水源の山である三瓶山は「水瓶」の山であり、山と水へのいのりが物部神社と邇弊姫神社の祭りとして受け継がれているというお話でした。

今回は静間川が中心でしたが、三瓶川沿いにも水へのまつりに関わる神社があり、縄文の森に近い中津森にある佐比賣山神社もそのひとつということです。