さんべ縄文の森ミュージアム(三瓶小豆原埋没林公園)

島根県大田市にある三瓶小豆原埋没林公園

お知らせ

月イチガク「縄文の森に狩人登場」!?」11月25日に開催しました

2023.12.02

 宮城県仙台市の富沢遺跡では、約2万年前の森林と人々の生活跡が発見され、地底の森ミュージアム(仙台市富沢遺跡保存館)として現地での保存と展示公開が行われています。今回の月イチガクでは、同館の平塚幸人さんに富沢遺跡についてお話をうかがいました。

 

 「狩人登場」のタイトルは、昨年10月に富山県魚津市で開催された「埋もれ木サミット」の際に平塚さんが紹介されたミュージアム・シアターの話題が印象的だったことからつけたものです。

 富沢遺跡は仙台市の市街地にある広大な遺跡で、19871988年に行われた発掘調査によって約2万年前の森林と人々の暮らしが詳細に解明されています。その成果を紹介する地底の森ミュージアムの常設展示内容を実感しやすくするための取り組みとして、劇団員が旧石器人に扮して当時の暮らしのイメージを演じ、来場者と対話するという取り組みを行っています。これが「ミュージアム・シアター狩人登場!!」です。

 資料に基づいて演じていますが、服装などわからないことも多く、できるだけ史実に近付けるように相談することが研究へのフィードバックにもなっているということでした。

 

 それでは、2万年前の富沢の風景はどのようなものだったのでしょうか。

 この頃は最終氷期中で最も寒かった時期にあたります。富沢遺跡ではこれまでの発掘調査から次のことが明らかになっています。

 一帯は傾斜の緩い平坦な地形で、湿地が広がっていました。陸地部分には針葉樹が生え、樹種は、北海道北部から樺太あたりの現植生に近く、アカエゾマツに近縁のトミザワトウヒ(絶滅種)、カラマツの仲間であるグイマツ、その他にチョウセンゴヨウなどが生えていました。

 そのなかで人がたき火をした跡が見つかり、石器を作ったり動物を解体したりしていたことが推定されています。使われた石器の顕微鏡観察から、ウサギ程度の小型の動物を解体したと推定されているそうで、そこまで解析できることに驚きをおぼえます。

 動物の痕跡としてシカのフンが複数の地点で見つかっていることも特徴です。堆積物とケイ藻化石から想定される水陸の境とシカのフンの分布、水生昆虫と陸生昆虫の化石の分布がほぼ重なるということで、高精度で2万年前の風景、環境が解析されていることがわかります。

 このような古環境と古景観の解析に基づいて描かれた復元画の紹介もありました。発掘調査で新しい情報が蓄積されると新しいバージョンが同じ作者によって描かれ、これまで4バージョンあるそうです。いずれも東側から西側を見る方向で描かれて、樹種も調査結果に沿った精密なものです。

 

 2万年前の風景を詳細に復元できたことは、古環境を示す証拠が良好な状態で残っていたことが要因のひとつです。当時の地表にあったものが良好に残した作用がどのようなものだったかは注目したい部分です。

 三瓶の場合は火山噴火というイレギュラーな地質現象によって急速な埋没が生じましたが、富沢ではそれほど劇的な現象を示す堆積物はありません。旧地表を覆う堆積物は砂より細かいシルト、粘土で、付近にある金洗沢と二ツ沢が供給源と推定されています。ただし、埋没のメカニズムの解明はもう少し検討の余地があるということでした。

 証拠が残った理由として、寒冷なため有機物の分解が遅いことも関係あるのかも知れません。その可能性を支持するように、東北地方では最終氷期中の埋没林が多く発見されています。

 

 今回、富沢遺跡について詳しいお話をうかがい、古環境復元が持つ可能性をあらためて感じました。現在の環境を知り、未来を予測する上での情報源は、過去の事象です。埋没林は一般的には地味な存在ですが、大きな意味と可能性を秘めていることを、埋没林を展示する富沢、魚津、三瓶の3施設で発信することの大切さを感じた月イチガクでした。

月イチガク「墓場放浪記」9月2日に開催しました。

2023.09.16

  92日(土)の月イチガクは、「墓場放浪記~石塔から探る石見の歴史2~」と題して間野大丞さん(島根県教育委員会)にお話しいただきました。

 本題に先だって、現在の勤務先である島根県埋蔵文化財調査センターについて紹介。遺跡がある場所や存在が予想される範囲で開発が行われる時に発掘調査を行う組織です。同センターの仕事を紹介する中で、約30年前から、縄文の森の中村が発掘調査に関わってきたことにも触れられました。間野さんと中村は大学の同級生で、「墓場と酒場」を共に訪ねる“奇妙な”関係です。

 

 さて、本題。

 昨年の月イチガクでも紹介された墓石の基本についての再確認から始まります。墓石を建てる文化は平安時代の終わりから鎌倉時代にかけての頃、密教系の寺院から始まったそうです。埋葬の場としての墓は縄文時代から存在しますが、石塔とも呼ばれる現在の形が使われるようになったのがこの頃ということでした。石塔には五輪塔、宝篋印塔のようにいくつもの石を組み合わせる墓塔系と、シンプルな形の墓標系があります。

 墓を調べることの長所は、墓は基本的に建てられた場所に残り、石であるため長期間残ります。大きさや材質が身分を反映し、近世の墓塔には文字が刻まれることが多いために、そこから得られる情報もあります。文字がないものも、形態から時代を判断する考古学的手法によって歴史を探る手がかりを得ます。そして、全国にあり、野外にあることから気軽に調査できることも長所と言います。

 

 そして、今回は「動く」をテーマに話してもらいました。

 建てられた後は動くことが少ない墓ですが、使われる石はしばしば他地域から持ち込まれます。石の動きが、社会的な集団の単位を反映するとともに、流通経路を知る手がかりになります。

 例として紹介されたのは山口町の瑞応寺近くの道ばたにある石塔でした。この石塔は花崗岩という岩石でできています。一般的には「御影石(本来は神戸市御影産の石材名)」と呼ばれることが多く、昔からよく使われ現在は墓塔の主流です。

 山口町は花崗岩が分布する地域ですが、地元で石塔の石材を産出した気配は今のところありません。花崗岩製の石塔はごくわずかであるため、他所から運ばれてきたと考えられ瀬戸内海地域産の可能性があります。同じ山口町の殿屋敷遺跡にも似た形式の石塔があり、これらは1415世紀頃に存在した寺が建てたものと考えられると言います。その時代にどこか他地域の石工が作った石塔が海を経由して三瓶山のふもとまで運ばれてきたのです。

 瀬戸内海地域産の花崗岩は中世頃から各地に流通し、例えば中世に栄えた益田市には大型の花崗岩製石塔が認められます。ところが、同じ頃から石見銀山の隆盛と共に多いに栄えた大田市地域は花崗岩製の石塔が少ない地域です。経済力や権力の象徴でもある花崗岩製石塔が大田市に少ないのはなぜでしょうか。それはこの地域が西日本有数の石材産地でもあるからです。その石は柔らかい凝灰岩が中心で、温泉津町では「福光石」の名で今も採石が続けられています。近代以前は各地に石工がいましたが、特に温泉津町福光は多くの石工がいました。手近な場所で良質な(花崗岩に比べるともろいけれど)石を産出し、石工集団がいると他地域からわざわざ取り寄せる必要性が低く、地元産の石の割合が圧倒的に多くなるのです。しかも、石見銀山は流通都市でもあり、福光石は石見各地から北陸方面まで運ばれて使われました。

 

 動くのは石ばかりでなく人も動きます。石工がやって来て、現地近くの石を使って製品を作ることがしばしば行われます。石塔は製品になった形で運ばれることが多いのですが、石垣など大量に石を加工する場合は他地域の石工が呼ばれることがあり、石工の居住地と名前が残されていることもあります。

 出雲市には松江市で採れる来待石(凝灰質砂岩)を使って、福光の石工の形で作られた石塔があることも紹介されました。どう作ったか諸説あるそうですが、福光の石工が出張して、来待石を使って現地付近で作ったと考えることが妥当だろうということです。

 

 前回の墓場放浪記で石塔に必要な経費について質問があり、その回答例も紹介してもらいました。浜田市三隅町の龍雲寺に石見最大級の石塔があり、大森町の熊谷家、波積の石田家、渡津の渡津家(親戚関係)が願主となって建てたものです。その際、大坂、尾道、下関の石工に発注した見積が残っており、27両の金額を提示した尾道の石工が落札したそうです。貨幣価値を考えると、現代ならおよそ1800万円に相当するということで、かなり大きな経費がかかることがわかります。

 

 石塔は未調査、未知のものも数多くあり、参加者へ墓場を放浪する仲間の募集を呼びかけて、講座は終了しました。

 ちなみに、当日夜の「酒場」は、大田市内の居酒屋でした。

8月12日の月イチガク「三瓶演習地と大社基地~島根に残る戦争遺跡~」開催しました

2023.07.23

 

 812日(土)の月イチガクは、「戦後史会議・松江」代表の若槻真治さんに、三瓶山にあった陸軍演習地「三瓶原演習地」と斐川飛行場を中心とする「大社基地」のふたつを、日本が進んだ戦争への歩みに位置づけてお話いただきました。

 日清戦争から太平洋戦争まで続いた戦争の歴史を客観的にふり返りながら、戦争遺跡を残し伝えることの意義とは何かを考える深い内容でした。

 

 

○日本が歩んだ戦争の道

 不平等条約から始まった戦争への道。明治政府が欧米と締結した不平等条約を解消し、列強と比肩する国家の樹立を目指すことが、日本が海外進出するきっかけでした。1894年の日清戦争から1945年に太平洋戦争が終わるまでの約50年間、対外出兵がない時代が10年続くことなく、戦争が続きました。世界的に「弱者」であった日本が、何とかして強者の仲間入りをしようとしてもがき、列強が行ってきた植民地政策などを真似て突き進んだ結果が、満州事変から太平洋戦争まで続く「十五年戦争」の泥沼でした。

 三瓶原演習地と大社基地は、図らずも戦争への道の始まりと終わりを物語る戦争遺跡です。

 

○三瓶原演習地

 陸軍の演習地だった三瓶原演習地は、大陸への進出を前提としたもので、全国で最初期に設置された演習地のひとつです。

 1891年に演習地として正式に開場される前から広島第五師団が演習に訪れ、はじめは兵士が民家などに寄宿する形で演習が行われました。その後、用地買収が始まり、志学に廠舎(兵舎)が建設され、東の原、西の原、北の原で砲撃訓練などが行われました。廠舎は現志学小中学校一帯に階段状に15棟(または14棟)の建物が並び、現在も構造物の一部が残っています。

 ほかには、東の原周辺に2ヶ所、西の原周辺に1ヶ所、小屋原の茶臼山に1ヶ所のコンクリート製の監的壕が残り、東の原のものは箱形、その他は地上部分が半円形で地下構造を持つものです。これらの建設時期は定かではないものの、1930年代とみられます。この頃、大砲の射程距離が延びて4000m前後になり、東上山から東の原方面へ向けて砲撃訓練を行ったと伝わります。東の原周辺の監的壕はその着弾を確認するためのものとされています。西の原はどこから射撃したかわかりませんが、男三瓶山の尾根を越えて北の原に着弾させることがあったといわれており、茶臼山の監的壕はその弾道を確認できる位置にあります。

 これまで三瓶原演習地について詳細な調査が行われたことはありませんが、軍用地境界を示す境界杭なども各所に残っており、これらと文献資料を照らし合わせることで演習地の実態に迫ることができる可能性があります。

 

○大社基地

 大社基地は、日本海軍航空基地で実践に使われたものでは最後に作られたものあり、滑走路の全体が残る全国でも数少ない航空基地のひとつでした。その中心だった斐川飛行場は、2021年に民間売却されて開発が進められ、現在は大部分が宅地化されています。

 航空基地の歴史は横須賀基地に始まり、初期は方形の飛行場の中心に格納庫が置かれる形でした。やがて八角形が主流になり、複数の滑走路が作られるようになります。この段階まで格納庫は中心付近にあり、風向きに応じた方向に素早く離陸出来る構造でした。末期になると滑走路は1本になり、周辺に複雑な形の誘導路を設けて航空機を分散して格納する形に変わります。空襲によって航空機が全滅することを避けるためで、大社基地の斐川飛行場はこの形です。

 大社基地斐川飛行場は19453月から建設が始まり、陸軍の設営隊と予科練生のほか、住民も女性や国民学校の児童まで動員して作られました。5月には運用開始していたというので、いかに急ごしらえだったかがわかります。

 滑走路は幅90m、長さ1500m、斐伊川の旧河道「新川」の地形を利用して作られています。コンクリートが不足するなか、大型の爆撃機「銀河」を離発着させるために平均の厚さ10cmでコンクリートをはっています。誘導路は滑走路の南側の丘陵際に続き、丘陵の谷を広げて航空機を格納する掩体が設けられました。爆弾庫などの地下壕も丘陵に設けられており、それらの多くが今も形を残しています。

 太平洋戦争末期に大社基地が設置されて、新型機だった銀河が配置されたのは、「本土決戦」に備えるためといいます。日本の海外進出が破綻し、本土が戦地になることが想定された「終わり」の段階での基地だったのです。

 

○おわりに

 明治時代以降、大陸への進出を進めた日本。この戦争は何だったのか。戦争を語る時、加害側、被害側のどちらかの視点に偏りがちですが、感情的な判断を一旦置いて客観的に歴史を俯瞰することが本質に迫るためには必要と考えさせられると同時に、答えのない問いなのかも知れないと感じる講座でした。

 日本が進めた戦争を準備する場として設置された三瓶原演習地、戦争末期の後がなき本土決戦に備えた大社基地。島根県に残る戦争遺跡の中でも最大規模のふたつの遺跡は、日本の戦争史の始まりと最後にあたる遺跡でもあります。この遺跡の総体を明らかにして、戦争を記録して伝えるための資料、教材として残すことは、これから取り組む必要がある課題だと思います。

 戦争遺跡は直接関わりがあった人の多くにとって「つらい思い出の場」でもあります。戦争の歴史に触れることがタブーのように思われてきた風潮もあり、基地関連の遺跡の意義を指摘しづらかったという事情もあり、これまで注目されにくかった存在でした。しかし、戦後78年が経過して過去のことになりつつある今だからこそ、戦争の歴史に向き合う必要があると感じます。

 6月24日月イチガク「大田の礎を築いた吉永藩 ~加藤家4代の栄光と浮沈の中で~」開催しました

2023.06.25

624日の月イチガクは、「大田の礎を築いた吉永藩 ~加藤家4代の栄光と浮沈の中で~」と題して、和田秀夫さんにお話をいただきました。

 


1.
大田に「殿様」がいた

 江戸時代の大田市エリアは幕府直轄の天領で、他の多くの地域のように領主はおらず、幕府から派遣された奉行、代官が地域を治めていました。しかし、江戸時代の前半にあたる1643年からの40年間だけ、川合町吉永に陣屋を構えた領主「加藤家」がいた時代がありました。加藤家は吉永藩として安濃郡(現大田市の東部)の20ヶ村を所領し、領地の経済発展のためにさまざまな産業振興策を講じました。その取り組みには今も受け継がれているものがあり、大田市の礎を築いたと言えるのです。

 380年も前からのわずか40年の治世は、大田市に残る記録も少なく半ば忘れられた存在ですが、大田市にとってとても大切な40年間です。その歴史をたどることができる範囲でまとめた資料として「吉永藩-治世四十年とその前・後-」という冊子があり、市内の図書館などで閲覧できます。この冊子は2013年に大田中央公民館が発行したもので、今回の月イチガクの講師である和田秀夫さんらによる「吉永藩編集員会」の編著です。

 

 

2.大田に来た加藤家

 大田へ来る前の加藤家は、会津藩(福島県)で40万石を所領する大大名でした。会津藩初代領主の加藤嘉明ははじめ豊臣秀吉、のちに徳川家康に仕えて功績を残した人物で、伊予(愛媛県)20万石の領主として伊予松山城の築城と城下の整備を手がけ、その後、加領されて会津へ転封しました。

 ところが、嘉明の子である明成は家老の堀主水と争い、「会津騒動」と呼ばれる内乱を招きました。この内乱は、所領をすべて取り上げられる「お家断絶」にもなる不祥事でしたが、嘉明の功績や加藤家の家臣らが持つ技能を評価されたか断絶は免れ、1万石に減封されながらも存続を許され、大田に転封になりました。

 会津を後にした加藤家は家臣団を引き連れて、陸路を新潟まで移動した後、海路で大浦湊(五十猛町)に渡り大田に来たのです。家臣は約80名と考えられ、家族や職人らを合わせると500人以上が大田へやって来たと思われます。

 大田に来た一団は、はじめは大田南村に逗留して拠点となる地を検討し、はじめは大田北村の現大田市駅付近を候補としたものの水の便が悪いことから諦め、吉永に陣屋を構えました。

 

3.吉永藩の領地

 石見銀山領の一部を割いて加藤家に与えられた領地は、吉永村(川合町と大田町)、川合村(川合町)大田南村、大田北村、市野原村(大田町)、刺鹿村(久手町)、朝倉村(朝山町)、神原村、山中村、才坂村(富山町)、小豆原村、多根村、池田村、小屋原村、志学村、長原村、加淵村、上山村、円城寺村(三瓶町)、東用田村(長久町)で、安濃郡のかなりの部分にあたります。

 海岸に面して港がある鳥井村(鳥井町)と波根西村(久手町)、波根東村(波根町)は所領しておらず、飛び地として石見銀山領のまま残されました。港を代官所が直営するとともに、この一帯の海岸にあった松林は銀の製錬に用いる灰の原料を調達する場所だったことから、銀山領とされたそうです。また、出雲国との境で山陰道の島津屋関所があった仙山村(朝山町)も銀山領で、要所は吉永藩に渡さないという幕府の意図が見え隠れする領地でした。

 

4.吉永藩が大田で取り組んだ事業

 吉永に陣屋を構えた加藤家はさまざまな事業に取り組みました。明成は吉永の陣屋で蟄居し、明成の子、加藤明友が家長となりますが、明友は江戸で奏者番という重職についており、大田での事業を直接指揮したのは家臣らでした。会津で40万石の大藩を支えた家臣には優秀な人材が多くいたのでしょう。

 大田で取り組んだ事業としては、次のことが伝わります。

 

 ①三瓶の原に牛を放牧

 ②浮布の池に鯉の養殖

 ③山林植樹の奨励

 ④桐・柿・梅等の植樹

 ⑤漆器の製造

 ⑥土木事業(堤防改修・用水等)

 ⑦備荒貯蓄のため貯穀(慈恩の釜)

 ⑧吉永鉱山・鈩製鉄の試み

 ⑨交通路の整備

 

 三瓶山での放牧は現代まで受け継がれ、今も島根県でトップクラスの生産高を有する大田市の畜産業の基盤になっています。西の原の景観に代表される牧野景観は三瓶山の象徴的な景観で、国立公園指定の指定時(1963年)もこの景観が高く評価されました。この景観もまた吉永藩の事業に端を発するものです。

 吉永藩が手がけたとされ、今も使われている用水路として、三瓶川から取水して大田町の橋北と長久町の川北の田を潤す守山(森山)用水があります。加藤家は会津では磐梯湖からの用水を行っており、その技術を導入したことが想像できます。ため池の整備も行い、富山町の徳田池は吉永藩が作ったと伝わっています。天然湖沼の浮布の池でも、そこから取水する用水の整備を行い、周辺の水田に水を供給したと伝わります。

 吉永藩は領地での農産業の発展を中心にてがけ、家臣と領民の暮らしを支えたことがうかがわれます。40年の短い治世で文書などの資料もごくわずかしか残っていないにもかかわらず、この地を去ってから340年経った今も語り継がれていることは驚くべきことで、革新的な取り組みを数多く行ったことが想像されます。

 

5.石見銀山代官と周辺の領主にとっての吉永藩

 幕府から派遣される代官は重職とはいえ一役人の立場です。代官にとって、減領されたとはいえ、もとは40万石の大大名だった加藤家は「格上」の存在にあたり、加藤家にとっても代官の背後にいる幕府は決して逆らうことのできない存在です。吉永藩と代官の関係は互いに緊張感があったと想像されます。吉永藩に関する資料がほとんど残っていないことは、加藤家が大田を去る時に「格下」の代官に資料をゆだねることはなかったことが一因と考えることもできます。

 物部神社に残る石見銀山領の記録では、吉永藩が治世した40年間について「年殺」と書かれているのみで記載がなく、そのことからも代官にとって吉永藩が目障りな存在だったことが想像されます。

 領地が一部で隣接する松江藩の松平家にとっても、加藤家は一目置かざるを得ない存在だったと想像されます。実力で会津の大大名に出世した加藤家は、藩を経営する能力と実績があり、この点では松平家を上回っていたと思われます。領地は接していないものの、浜田藩主にとっても同じように一目置くべき存在だったでしょう。

 

6.大田を去ってからの加藤家

 加藤家は1682年に水口藩(滋賀県)へ移封されます。水口は京都に近く、東海道で最初の宿場町でもある要衝です。ここを任されたのは、大田での実績が評価されて格上げされたということで、所領も1万石から2万石に加領されました。

 また、琵琶湖の水利を中心にした産業振興が期待されたことも想像されます。

 水口で幕末まで領主を務めた加藤家は、明治時代以降も県知事を輩出するなど、滋賀県において重要な役割を果たしました。

 歴史に「if」はないと言われますが、もしも、吉永藩が幕末まで存続して加藤家が大田に残っていたら、大田市のみならず島根県の歴史が大きく変わっていたのかも知れません。吉永藩、加藤家とはそのように大きな存在だったのです。

 水口へ移封した加藤家ですが、家臣には大田に残った人もいました。幕末から明治にかけて、用水などの公共事業を幅広く手がけて大田の発展に尽力した岩谷九十老は、家臣の子孫にあたり、その仕事は加藤家の理念を受け継いだかのようでもあります。

 

7.おわりに

 吉永藩は40年の治世において、今も語られる数多の業績を残し、大田市の礎を築きました。その歴史を知る人は多くなく、歴史を探る資料も限られますが、大田という町を知る上では欠かせない存在です。

 和田秀夫さんは、大田市にとって重要な存在である吉永藩の歴史を解き明かし、伝えることが大切だと考えていらっしゃいます。そして、「大田の歴史と文化を知ることは、未来の大田を展望することと」して、市民が地域を知ることから未来が広がると指摘して、今回の講座を締めくくっていただきました。

月イチガク「大あなご学」5月20日開催しました

2023.05.05

 520日の月イチガクは、「大あなご学」と題して、「大田の大あなご」ブランド化の仕掛け人、沖 和真さん(大田商工会議所 事務局長)にお話をうかがいました。

 近年、一気に大田市の名物に躍り出た大あなごのブランド化がなぜ始まり、どのような取り組みを行ったかについて、大変興味深いお話でした。

 大あなごの取り組みが始まったのは2018年。わずか5年前です。沖さんは以前から大田市の「一日漁」のブランド化に取り組んでおり、その漁獲の中で全国屈指の水揚量を誇るアナゴに焦点を当てることになったそうです。この一日漁とは、朝出港して夕方に帰港して水揚げする漁の形態で、漁場に恵まれた大田市の特徴で、魚の鮮度は抜群です。

 取り組み以前は、大田市で水揚げされたアナゴの大部分は県外へ出荷されており、市民にとって馴染み深いものではありませんでした。水揚量が多いことを知る人も関係者などに限られていました。

 そのアナゴをブランド化するために、東京や広島などの産地に比べて圧倒的に大きいことを押し出し、「大田の大あなご」の名称を使って展開が始まりました。他の産地のアナゴは体長3040cmが中心で、大田市で水揚げされる日本海西部のアナゴは体長5080cmです。ブランド名称を決める際、大あなごは大味なイメージにつながると懸念する意見もあったそうですが、大きさという特徴を活かすことと、小さなものより肉厚で柔らかく脂の乗りが良いことを売りにするために、「大」にこだわり、「大田」、「大あなご」と大をくり返す音の響きにもこだわったということです。

 

 

 20193月に「大アナゴまつり」というイベントを行いました。ブランド化の取り組み全般を通じて予算はわずかしかかけておらず、大アナゴまつりの周知もチラシは作らずSNSなどwebのみで行いました。このことは、市外からの参加者を呼び起こすことにつながりました。当初は定員80名としたところ、申込みの多さから100名に増やし、その4割が市外からの参加者でした。このことは、観光資源としての可能性を確信することになり、ブランド化へのキックオフになったのです。

 イベントに続いて、アナゴを使った料理のレシピコンテストを行いました。コンテストを通じて多くの人に関わってもらうことができ、調理方法の幅が広がることも期待できます。同時に、沖さんは自ら飲食店を訪問してメニューにアナゴを取り入れてもらうように依頼したそうです。断られ、幾度も足を運んだこともあったそうで、その汗をかいたことが今につながっていると思われます。メディアへの情報提供を通じて報道等での紹介もあり、大あなごの認知度は短期間で高まって行きました。

 これらの取り組みを進めてきた4年間で、アナゴの卸売価格はキロあたり500円程度から1300円以上に急伸し、メニューで扱う飲食店数は2店舗から31店舗へ増加しました。他のアナゴ産地では、あなご丼か重くらいしかメニューがないことが多いことに対して、鮮度が良い大田市では刺身を提供する店舗もあります。和食店に限らず洋食店でもアナゴを取り入れており、レシピコンテストなどで調理法の幅が広がることへの意識が生まれたことも好材料でした。その結果、市内の至る所で「大あなご」の文字を見かけるようになり、市内での流通量と消費量が飛躍的に拡大しました。

 ブランド化の取り組みが単に認知度を高めようとするものではなく、生産から流通、消費まで産業全体の底上げを図りながら、一体的な戦略をとして進めたことが成功の鍵だったと言えそうです。

 

 

 強い逆風もありました。ブランド化の取り組みが始まって間もなくコロナ禍によって世の中が大きく変化したのです。飲食と観光の落ち込みは大きく、関連する産業への影響は極めて大きなものでした。しかし、ブランド化の取り組みは逆風に耐え、産業の下支えにつながりました。市外へのアナゴの出荷量は大きく減少し、そのままでは休漁を余儀なくされる事態にもなったかも知れません。

 ところが、市民への大あなごの認知度が高まり、販売の体制が整ってきていたことで地元消費量が拡大し、外への出荷の減少分を補うことになりました。旅行に行きにくい状況で、市民の関心が市内に向けられたことには、「禍転じて福となす」という面もあったかも知れません。

 

 

 ことあるごとに話題を発信し、報道での取り上げを図ることで、市外での認知度も少しずつ高まっています。ブランド化の成功事例として漁業、商工、経済関係者などからの注目も高まっています。巨大な大あなご天丼がテレビ番組で紹介されたことをきかっけに観光客で行列ができるほどになった店舗もあります。20232月にさんべ荘で将棋の王将戦が行われた際、藤井王将が大あなご重を食べたことも話題になりました。

 ここまで至った背景には、大田の一日漁で水揚げされるアナゴの品質があります。どれだけPRしても、モノが良くなければ定着しません。そして何よりも沖さんを中心に的確なブランド展開を行ってきたことが成功の理由でしょう。この展開を支えたのは「人の縁」だと沖さんはおっしゃいます。生産者から流通、販売、観光など各種業者と行政、研究者、メディア関係者など多くの人をつなぎ、広がったことが大きな力になったのです。

 

 

 そして、大あなごのブランド化はまだ終わっていません。沖さんの視線は大田市の未来という高みを見据えている。そう感じるお話でした。

2023年もやります「月イチガク」

2023.03.16

月イチで開催する、チガク的な視点のチイキガク講座「月イチガク」。

2023年度も多彩な講師を招いて開催します。

年間スケジュール(PDF)月イチガク2023

 

縄文の森と石見神楽

2023.02.25

 

当館から約1km東に位置する「多根神楽伝承館」では、毎月第4日曜日と第2土曜日に「多根神楽伝承館定期公演」を行っています。

第4日曜日の開催時間は14:00~15:00で、縄文の森の見学とあわせて石見神楽を鑑賞できます。第2土曜日は20:00~21:00の開催です。

(詳しい開催日、出演社中、料金等は石見銀山神楽連盟のサイトでご確認ください。)

学校でのご利用のご案内

2022.04.13

1.学びのための展示解説

埋没林は、自然環境の歴史を物語る「森の化石」として学びの要素を持っていますが、

見るだけではその意味がわかりにくいかも知れません。

学校でのご利用の場合は、学びにつながるために職員が解説します。

あらかじめご相談ください。(解説時間は20分程度です。)

 

三瓶小豆原埋没林を学びにつなげるためのポイント

 

2.人数について

展示室に一度に入場できる人数は、100名程度が上限です。

人数が多い大規模校の場合、入れ替え制で解説させていただきます。

 

3.貸切対応

60人を超える場合、他の来館者の入場をお断りして貸切対応いたします。

滞在時間40分間を上限として当日は来園時間の変更ができませんので、

予約した時間にお越し下さいますようお願いいたします。

(※学校団体は上記条件に準じません。)

 

4.料金

学校減免により、児童・生徒80円、引率の先生は無料です。

減免申請書をご記入の上、事前にFAXか来園当日の受付時にお持ちください。

(解説・ガイダンスに別途料金は不要です。)

5.事前学習資料

事前学習用の資料として、「見学のしおり」を用意しています。

(下記ボタンよりPDFファイルが保存できます。)

動画で紹介・三瓶小豆原埋没林

2017.11.25

まいぼつりんって何??

島根県の動画サイト「しまねっこチャンネル」で三瓶小豆原埋没林の発見と概要を動画で紹介しています!

 

https://www.youtube.com/watch?v=mI-DACXzHSU